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永い永い付き合いとなった姑とは平成11年4月をもって最期となった。
顧みると、 1つ屋根のもとに暮らした歳月は実母よりも長いものだった。
3人の息子達は高校を出ると同時に、 次々と親許を離れていき、 家に残ったのは、 他人ばかり3人 (実は養母) が暮らす事になったのだった。
思い起こすと舅が亡くなった頃 (昭和62年4月没) から痴呆の兆が見え始め、 まだら
ボケと言う言葉も知った。
毎日の生活のなかで、 お金の切盛も全ての責任もなく、 私達に依存する状態だったので緊張感もなく、 それでボケてしまったか?
あの頃、 お天気の良い日でも1日中寝そべってテレビ漬の生活だった。 私は勤めていたので、 せめて家の廻りの草取りをしてほしいと願っていたが……。
又、 大きな声でよく独り言をいっていた。 その声があまり大きいので、 誰かきているのかなと思ったが、 蚊が噛んでかゆいと怒っているのだった。
あんな事、 こんな事いっぱいあって、 そのうち足がだんだん弱くなり、 ポータブルトイレを使うようになった。 ズボンのお尻がよく濡れていたのを思い出す。
ベットから下に降りると、 ベットにも、 トイレにも座れなくて、 どうしても立ち上がれない時もあった。 日中1人では、 食べる事も、
トイレも使えなくなり、 紙オムツがいるようになった。
私は退職し、 そして1日中養母と向い合う日々が始まり、 お風呂も週1回デイサービスの利用という生活になり、
福祉施設の事も少しずつ判ってきた。
その頃になると、 これは痴呆の症状なのだと、 はっきりと夫と確認するような出来事が頻繁に起こってきた。
まず異常な食欲にびっくりさせられた。 姑の頼みでおやつを買ってスーパーの袋ごと渡しておくと、 まるでコント
ロールがきかない。
ベットの中で夜どおし、 食べている。 食べるのだけが姑にとっては仕事であり、 楽しみだったのか? 佃煮の贈答品の詰合せも1人で片づけてしまった。
朝食を済ませて一寝入りして目が醒めると、 まだ朝ごはん食べていないと言いはった。 夕食の準備をしていると 「朝から何も食べていない」
と食卓迄、 いざって出てきた。 私が炊飯ジャーを開けて、 朝昼ちゃんと食べているから
こそ、
御飯が残り少ない事を告げると、 姑は言ったものだ。 「あんたは私に食べさすのが、 そんなに惜しいのか。
始めから、
少しばかりしか炊いていない」 そんな時はカッカッと血が昇るようで、 血圧が上がっていたに違いない。
そして幻覚、 幻聴と言った症状が出て、 テープに撮って義弟達に聞かせたいなと思う事が度々おきた。
いつまでこんな言動に振り廻されるのかと、 先の見えないトンネルにいるようだった。 そうこうしている時、 申し
込んでいた養護老人ホームに空が出来て、
入居する事になり、 それからは短い期間で持病が悪化していった。
自宅でけんかしながら暮らしていたら、 もっと長命であったやもしれないのだが、 私は精神的に参っていたでしょ
う。
合掌
私は大正13年2月神戸市で生を受け希望に満ちた将来を夢みていましたが、 日清日露の戦後は大勝利を収め 「富国強兵」
をめざす軍部の圧力を押える者もなく、 満州事変支那事変へと拡大をしてゆきました。 この為、 国家
総動員令のもと老若男女を問わず軍部の意のままに動員をされ、
これに不服をとなえる者は非国民扱いにされるほか、 特高警察による連行もあり友人にも真実が話せない暗い青春時代を過ごして参りました。
昭和17年4月
兵庫税務署に奉職しましたが、 職員は高老者と女子職員が業務に従事しており、 新人研修などはなく自己研鑽で職務に取り組んでまいりましたが、
昭和19年10月現役兵として中支派遣軍に入隊せよとの通知を受け、 目前に
敗戦を予知しながら中支へとは思いながら集合場所である門司の民家で2泊をして装備を受け取りましたが、
水筒は竹筒で出来ており物資のないことはよくわかっていたが、 これほどとは思いませんでした。
軍部の発表は
すべて作為的なものであり、 前途は暗いものばかりでした。 門司港より釜山港へ上陸後は、
ただちに貨物列車で
1週間後に 「奉天」、 さらに列車は走り最終地の 「上海」 でやっと下車、
この地で3ケ月の教育を受け終戦の年2月に嵐部隊の後方支援のため前線へ出ました。
このときすでに兵器をはじめすべての物資はとぼしく、
食料品は現地調達の名のもと近接農家へ徴発と称して
強奪をしたのも勝利のためと思いながら反省をしておりました。
終戦の年7月頃より米軍の空爆は爆弾の替りに東京・大阪等の状況を写真入りでのチラシを投下するようになり、
内地の状況は手に取るようになりました。 8月14日交戦中停戦を知ったのは8月16日、 それも日本が無条件降伏となり一部の支那軍の残忍さをみていたので、
無事帰ることは出来ないと思っていましたが蒋介石総統の 「暴に
報いるに暴をもってしては駄目」
という思想のおかげで大多数の軍人の生命が保障されましたが、 復員するまでの道中は長くひたすら歩き続け、 やっとの思いで上海に着いたのは昭和21年6月であり、
海路日本を目ざして着のみ着のままで博多港に下船をすると、 アメリカ兵よりDDTを全身に浴びせられながら、 列車の窓から乗り込み神戸に向いました。
神戸に近づくにしたがい、 一面焼け野原であり自宅は松の木1本が焼け残っており、 やむなく母の実家に着くと
母と弟が迎えてくれましたが、 それは不信に満ちた目でありました。 2日滞在のあと兵庫税務署に復員のあいさつに行くと、
ちょうど財産税の決定の時期であり、 すぐに出勤をしてほしいといわれ下宿が見つかり次第としてようやく
出勤をしましたが、
生活が苦しく昭和22年7月に近江八幡税務署に転勤をしましたが、 税制は大きく変りアメリカ式の申告納税となっていたが、 国民にはなじむことが少なく政府は色々な特典の付いた青色申告制度が導入されるとともに、
この制度の普及に全力を投入し、 ようやくその効果が出はじめたのに国の財政状態は多額の赤字による
国債の大量発行となり、
この解決には税収の確保以外に策はないため税務職員に一層の苦労が大変と思う反面、 適正申告をした納税者に対する署の取組をみるに、
申告納税制度が崩壊するのではないかと危惧をするのは
私1人ではないのかと考え込むこの頃です。
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世紀を越える |
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下京地区 小田 良三 | ||
ミレニアム 送り火燃える 京五山 | ||
迎える年に 希望をこめて | ||
大晦日 古都に集える 火の祭り | ||
輝く炎 昇龍と化す | ||
大行灯 新旧世紀の とおり道 | ||
都大路を みやびに照らす | ||
寒風の はざまに響く 除夜の鐘 | ||
新旧世紀に 余韻刻みて | ||
巳の歳の 縁起かつぎて 初詣で | ||
健康長寿は 欠かせぬ祈り |
1923年 (大正12年) 生れの満77才の老人になり、 益々元気溌剌、 若き時代の病弱時とは全く変って、 毎日が喜びと感謝で精一杯、
何事も丸く治まるようにとの思いで今を生きております。 有り難うございます。
地元上狛尋常高等小学校。 大阪市興国商業学校 (現興国学園高校)。 立命館大学専法科を経て、 新聞記者、
ヤミ屋等の傍ら青年運動に青春の捌け口を見つけ頑張っていた。
その後戦後の混乱期も静かになり、
昭和23年税務署に就職し、 昭和34年退職後、 先輩税理士武藤謙吉先生
(故人) の許で研修を積み、 37年から税理士事務所を経営し、 平成8年より息子治にすべてを譲り現在に到る。 地域に密着の事務所を願っていた
関係上、 次のような公職団体役職に就任し、 又現在も数多く就任中である。
宇治税理士部会初代部会長。 山城町商工会第5代会長。 山城ライオンズクラブ13代会長。 宇治納税協会
筆頭副会長。
宇治納貯連合会相談役。 京都府町村監査委員協議会長。 山城町代表監査委員。 町固定資産
評価審査会長。
町特別職報酬審議会長。 中部消防本部代表監査委員。 公立山城病院代表監査委員。 府警察官友の会幹事。 郡安全協会会計。 変った役では、
美加の原カントリークラブの理事兼ハウス委員長。 等の役職を
今も持っており、 役職を退いたらボケになるからボケ防止のために就任してもらっていると言われ、
老体にむちを
打っている。 尚、 現在は下手なゴルフを月に5回程度を目途に頑張っているが、 思うようにプレーが出来ず
スコアを気にしない異端人でもある。 生れつき歌が下手で人前で歌うことは殆んど無かったが、 テレビの老人健康の中にカラオケがあったのがきっかけで、
これからはこれにも挑戦してみようと思っている。 好きな水墨画は今も
月2回程の手ほどきを受けてはいるが、
上手になれず先生を困らせている現状である。
大した業績も挙げていないけれども、 今日まで色々な賞を頂いたが、 それを列挙すると次のようである。
納税功労により宇治税務署長、
大阪国税局長より感謝状や表彰状を又、 交通安全功労により地元警察署長、
府警本部長から交通栄誉賞として近畿管区警察局長から警察庁長官から緑十字銀賞を受賞した。
地方自治功労として地元山城町長、 京都府知事から尚自治大臣からも表彰を受けその栄誉に喜んでいる。
本年は全国町村監査委員協議会長からも監査委員功労により表彰を受けた。
前記のように種々の公職や名誉ある賞を受け、 身に余る光栄と喜び、 今後も身体のゆるす限り、 世のため
人のために役立つよう精進する考えである。
但し、 後進に道を譲るべきときは早刻に気持ちよくできるように
考えている事は当然で、 何時迄も続けている積りはない。
物欲も無く、 名誉欲もない今は、 恩返しのための働きであり、 願わくば我が後継者のタケダグループに対し、
先生方の厚いお情けとご支援を乞うのみであり、
よろしくお願いを致します。
尚現在は、 20世紀も終わり、 21世紀に入ったのを機に、 私の77年間の回想録の執筆も終って編集中で、
いつかの日に単行自費出版の予定である。
勿論、 一私人の自伝史を読む人は無いと分かってはいるが、
子孫のため遺しておけばと又、 自己満足のためにでもあることをもって筆を止めます。
子供の頃、 日本が戦争していたせいか、 男の子は刀や鉄砲で遊ぶのが好きだった。 大人になっても郷愁のようなものがある。
大人気ないとは思ったが先般、 寺町四条上ル、 ヤマモトで買ったのが 「SWリボルバー」 西部劇の早撃のやつである。 カートリッジに所定の火薬を押し込んで装填し、
ハンマーを起すとシリンダーが1つ廻り、 トリガーを引くと撃発する事になっている。 弾丸は出ない。
店の人が 「火を吹くし、 相当な音がするので住宅地では不向き」 と言うので火薬は買わなかった。 時々取り出してカートリッジを嵌めたり、
はずしたり、 トリガーを引いたり眺めたりしてる。
ピストルと言えば弾が出なくっちゃと、 も1つ買ったのが 「ワルサーPPK」 ガスガンである。 マガジン後部に高圧ガスを注入、
前部に6ミリ樹脂球 (BB弾) 20発込めて、 グリップ内に装填、 トリガーを引けば、 バスッと発射する。 同時にスライドが勢いよくバックして、
チャージ、 又トリガーを引くと発射、 と連射がきくのである。 ガス1回注入で弾補充60発は撃てる。
付属の粘着ターゲットに当れば良いが、 外れればパンパン跳ね返るので、 思案の末、 バスタオルに的を書いて吊り、 下に紙箱を受けた、
暖簾式ターゲットを愛用している。 6mは直線で飛ぶ。 野外で発射した事はないが、 説明には射程50mと書いてある。
間違っても銃口を覘いたり、 人に向けたりしてはならない。 残り弾が飛び出すかも知れない。
あれはもう何年前になるのでしょうか。 小学校の卒業文集の 「将来の夢は?」 という問いに、 「10年後には
ソロバン日本一になる」 と断言していた私。 中学・高校と珠算を続け、 公立の普通科に通いながらも珠算部に
所属し、 毎日の練習は欠かさず、 夏休みには名門明徳商業高校で練習を重ねる日々でしたが、 勿論日本一なんてとんでもない。
京都一にもなることはなく夢は夢のまま。 そしていつのまにか “将来の夢” は “高校の国語の教員に
なること”
と変化していったのです。
大学で国文学を専攻し和歌に魅せられ、 教職課程で教育実習に行った私は、 ますます “教員になる” という夢を
大きくふくらませたのですが、
またまた夢は夢に終わり。 京都市は私のようないい加減な人間を大事な生徒の教育に携わらせることはできなかったようです。
次に自分の夢となったのはやはり “税理士になること” でした。 勉強を始めた最初のうちは順調で、 「夢の実現は時間の問題かな」
とたかをくくっていたのですが、 なんのなんの…。
それから延々7年間という長〜い時間を費やしてしまうことになりました。 やっと合格したとは言うものの、
実力で夢を実現させたというよりは、
運と根性で夢を引き寄せたようなものですが、 税理士になるという夢の
第1段階はなんとかクリアしました。
税理士になってはや7年。 その間これと言って何の夢も持たず、 なむなむと
過ごして来てしまいました。
あ、 業務に追われていたのではないんですよ。 ただ夢の実現は容易なことではないと痛感したからでしょうか。
大きな夢を持つことが恐くなったのかもしれません。
今年は21世紀最初の年。 この記念すべき年に30歳と120ケ月を迎える私。 (このフレーズは知り合いの先生の事務所職員さんのお気に入りのフレーズです)
ここはひとつ一念発起して、 いままで持ったことのないような大きな夢にでも挑戦してみようかと思っています。 (そう言えば私の今までの夢ってあんまりにも小さい…)
今度の夢の
実現には何年を費やすことやら…。 でもでも何年かかってもいいんです。 私が永遠の眠りにつくまでがタイムリミットなんですから。
その夢は何かって?
それは人生最高のパートナーにめぐり逢うこと。
え?! もう実現してるんじゃないのかって? それは言わぬが花というものです。 今度お会いした時に、 直接
お教えしましょう。
それまでに自分を売ってしまう関西人の悲しい習性を治すのを夢にした方がいいのかも。
みなさんの21世紀の夢がかないますように。
「心筋梗塞」 という思いもかけていなかった病名で入院させられ、 カテーテルの結果、 風船治療を受けることと
なったのに、 いざ風船治療が始まったと思ったら、 先生が耳許で、 いま写真を見たら動脈がコレステロールで
2本が90%以上もつまっている。 風船治療は危険なので中止すると囁かれる始末。 結局、 あなたの場合は
バイパスを通すしか方法がない。 これは治療ではありませんと言われる。 そして先生は状況を説明するだけで、
手術を受けるかどうかをきめるのはあなたです。 どうしますかと言われる。 自分としては、 先生がこうしますと言ってくれるのを半ば期待していたのに、
これではまるで2階へ上げられて梯子をとられたような気持でした。 これが
インフォームドコンセントというものとあとで知った次第です。
手術は全身麻酔で行われ、 朝から午後までかかる
大層なものでした。 骨まで切られ、 麻酔が覚めてから相当痛みました。
何よりも病院の味のまるでついていない
うす味の食事には閉口しました。 しかし、 お陰様で経過はよくて、
カテーテルで調べてもらった結果3本共バイパスがうまく通っているということで手術後1ケ月以内に退院することができました。
暫くは支部の旅行にも、 他の先生方に迷惑がかかってはいけないと遠慮していましたが、 手術後丸3年を経過
した現在、
病院には月に一度通っているものの、 日常の生活は普通に送っていますし、 何と言ってももうトシですし、 行けるときに行っておかないとと思い、
それまで独りで行っていたのを家内も同伴させて今年は7月にエッサム
ファミリー会連合会の北欧・ロシア研修旅行13日間に参加、
サンクトペテルブルグだけでしたがソビエト崩壊後の
ロシアも見てきました。 9月には京税協のカナディアンロッキーとバンクーバーの旅にとお歴々の先生方に
同行させて頂きました。 海外旅行というのは参加者の健康だけでなく、 身内に病気や不幸が起っても取りやめに
なるもの、 現にカナダ行きの直前になって妹が大腸ガンを宣告されて入院、 このため旅行の申込みを一旦
取消したのですが、 幸い手術後の経過がよくてすぐに退院、 入院前より元気になりましたので申込みを復活、
カナダへ皆様とご一緒できた次第でした。
カナダは景色全体が雄大で一時国内の不況や、 諸々の不快な出来事を忘れることができて何よりでした。
コロンビア大氷原はさすがに寒く、
風も強かったが、 すばらしかったと思い出して居ります。
世の中こんなに早く、 IT革命が進むとは思わず、 2003年から実施されるという電子申告に、 どう対処すれば
よいのかと悩んでいるところです。
ウェルカム21世紀記念エッセイにあてはまらない、 取りとめのない文章で申し訳なく思っている次第です。
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