第92号(H.13.1.25)

No.1
新年のごあいさつ
新春講演会

No.2へ

組合の動き
資産税に関する実務研修会

No.3へ
京都市交通のあゆみ
 

No.4へ
21世紀記念エッセイ
有田徳五郎先生〜石原 豊先生

No.5
21世紀記念エッセイ
木村祐一先生〜嶋谷俊子先生

No.6へ
21世紀記念エッセイ
田中美代子先生〜西 幸三先生

No.7へ
全国統一キャンペーン表彰式
ソフトボール大会

No.8へ
ふれあい美術館


welcome 21世紀 記念エッセイ

木村祐一   岩ア正典   清水郁雄   伊藤俊春 

南 利憲   芦田勝博   嶋谷俊子  /  川 柳


2枚の任官辞令についての当時の思い出

右京地区  木村 祐一

 私達はこの世において順境逆境の間にいろいろの事象に遭遇し、 喜怒哀楽、 幸不幸を味わい、 ある時は美酒に酔いある時は屈辱に涙し、 それを運命として過ごしてきた。
  「任官辞令」 なくて価値感の異なる現在においては単なる紙切れと言われようが、 当時の税務署雇はこれを得るために努力し、 その重みを感じたものである。
 桐葉の透かしの入った 「任税務署属」 「大蔵省」 なる任官辞令を2通所有した者は、 税務部内においては数少ないが私はその一人である。
 私は昭和12年1月税務署雇を対象とした大阪税務監督局判任文官銓衡試験を受験、 同年3月幸運にも上位で合格した。
 試験科目は所得税法 (法人、 個人)、 地租法、 酒税法、 国税徴収法、 民法総則、 経済大意、 作文、 珠算であった。  当時任官試験は毎年1度行われ、 税務署雇の登竜門で受験者の意気込みも凄まじいものがあり、 この試験に失敗すると万年雇として処遇された。
 昭和12年は税務署の定員増員があり、 任官試験は1月と7月に行われ、 上位の合格者から逐次任官して行った。  私は愚かにも上位合格であったことに慢心し、 遅くとも年内には任官できるものと期待していたが、 不徳の致すところで実現しなかった。
 その原因は多々あり、 ある程度理解しているが、 それについては語りたくない。
 私が残念だったのは、 私の後輩や不合格者が2度目の試験で合格し、 嬉々として先に任官して行く姿を見ると悶々の情押えがたく、 退職して満州の野に骨を埋めようとも考えたが、 母のことを思うとそれは許されなかった。
 長い税務の職にあって恥かしいかぎりだが、 この時ほど自分の処遇について苦しんだことはなく、 これが最初の最後であった。
 昭和13年5月合格発表から1年3ヶ月後にやっと任官できた。 伊藤署長より任官辞令を交付されその重みをひしひしと感じた。 帰宅して母に辞令を見せたところ 「祐一もやっと官吏になれたなあ」 と何よりも喜ばれた。
 官吏は薄給であったが、 当時の社会においては一種の優越感があり、 私も人並みの社会人となれたことを感謝するとともに、 全省庁の武官文官の職員録に私の氏名が登載される喜びもあった。
 ところで私が何故2枚の任官辞令を所持したかというと、 当時の制度で軍務に服する場合現役兵は退職、 補充兵は在職がとられ、 私は現役兵のため昭和14年1月9日退官、 翌10日歩兵第九聯隊に入隊した。
 補充兵であれば当時の俸給40円から二等兵の給与5円50銭を差し引いた額が苦労した母に支給されるのであったが、 それも夢となり私は私の一家が何時まで逆境に置かれるのかと天を怨んだ。
 然しこれは大きな誤りで、 逐次入隊した補充兵は3ヶ月の教育を受けた後戦線に送られ幾人かの戦死の報も聞いたが、 私は現役兵のため2年間内地にあり、 昭和15年12月中支に送られたもので、 若し私が補充兵であればどのようになっていたか分からない。
 昭和18年2月6日除隊、 生活のため休養を取ることもなく、 同月8日上京税務署の臨時雇に就職、 4月8日付で再度任官を告知され、 後日任地において吉田署長より辞令の交付を受けたが、2度目とあってか大きな感激はなかった。
 同じ辞令でありながら、 受領した時代、 時期、 環境の相違から心の動きにもこのような変化があった。
 今の私があるのは、 この2枚の辞令により良き上司、 先輩、 同僚、 後輩に恵まれ、 曲りなりにも税務の職を全うできたお陰と感謝している。


廻り年雑感

下京地区  岩ア 正典

 会員の先生方には21世紀の幕開けの新年を、 恙なく迎えられましたこととお慶びを申し上げます。
 人生には出生に始まり、 入学・卒業・就職・結婚、 そしてサラリーマンには退職といった節目がありますが、 これを短く1年で考えましても、 新年・誕生日・結婚記念日などがあると思いますが、 何をもって節目とするかは人それぞれの考え方になって来ます。 私としましては、40年勤めて来た税務の職場で、7月の人事異動も節目ではありましたが、 事務年度の丁度折り返し地点になります新年を大きな節目と捕らえて来ました。
 税務の職場では、 過去1年どれだけ立派な事績を挙げていても6月30日で御破算となり、 7月1日からは新たな出発となる訳で、 それなりの目標を立てて頑張っては見るものの、 運、 不運もあって毎年コンスタントな事績を維持することは非常に難しく、 隣の席の同僚が調子良ければ焦りもあって益々深みに入ることになります。
 そうした苦悩の毎日から開放される時が丁度半年を過ぎたところでやって来る新年になる訳で、7月に立てた目標に対してどうであったのかの点検……仕事ばかりでなく家庭の夫として父として、 昨年の元旦に立てた 「計」 の実現に向かって、 どれだけの努力をしたのかを振り返り、 反省し、 方向修正あるいは新たな今年の 「計」 を立てる機会として捕らえてきた新年であったように思います。
 しかし、 今年は全く違った感覚を持って迎えた新年でありました。 巷では21世紀云々と、 たいそうなイベントを繰り広げておりますが、 私個人的には昨年7月に退職し、 第2の職業として選んだ税理士の道を歩きだしたばかりの未知への不安が付きまとい、 巳年と言うことは自分の還暦の齢でもあって、 気力の面では自信があっても、 体力的な面において衰えを感じさせる症状を色々と自覚させられ、 健康の面についても何時どうなるかといった不安を抱えての新年を迎えたと言うのが本音であります。
 そしてもう一つ、 国税の組織の偉大さ・素晴らしさを認識した新年でもありました。 昨年4月から倫理規定なるものにガチガチに縛られていますが国税の組織では元々、 綱紀の保持については非常に厳しく、 特に外部者との付き合いについては 「世間の常識は国税の非常識と思え」 と戒めております。
 あれもダメこれもダメと、 規則・規律に縛られた非常に窮屈な職場ではありましたが、 それだけに職場仲間としての連帯感は非常に強い (もっともこれは世間の皆様から少なくとも歓迎されていない仕事を持つ者の仲間意識もあるでしょうが……)
 新入職員であれ署長であれ、 「真剣に仕事」 をしていれば多少のミスを犯しても、 こっぴどく叱られはしますが、 組織としてカバーしてくれますし、 また、 地位が上がればあがるほど仕事は部下がしてくれます。
 署長は全体を見渡して指示を与えていれば良いだけ、 という待遇で園部・右京と3年間署長をさせて頂き、 退職の挨拶に対して相手から 「大変だったでしょう」 「肩の荷が下りたでしょう」 と労いの言葉を戴いた時 「守ってくれる組織を失って、 一人で生きるこれからが心配なのです」 と言いたかったのが本音であります。
 ともあれ40年間、 どちらかと言うと頭の高い態度で結構言いたいこと、 したいことをやってきた 「攻め」 の税務職員であったと思いますし、 その姿を見て育っている可愛い後輩が職場に残っております。
 これら後輩にカッコつけるためにも、5回目の廻り年を迎えて 「還暦」 などと老け込まず 「攻め」 の姿勢を保ち続けたいと、 意を新たにした新年となりました。
 仕事面につきましては、 退職後一生の仕事となる税理士業の第一歩を踏み出したところでありまして 「一年の計」 というより 「一生の計」 を立てる事が大切かとは思いますが今もって、 コレといったビジョンが沸いて来ない焦りを感じている訳ですが、 イメージ的には、 やはり40年間身をおいて来た職場の経験を生かすことしか無いのかな? と考えております。
 先に触れましたが、 退職をして初めて実感出来た、 国税の組織の偉大さ・素晴らしさ、 与えられていた権力の大きさ……これによって一人の大人として育てられたことへの 「恩返し」 として、 税務の職場への側面的な協力を原則としながら、 署側に横暴があれば、 毅然としてクライアントを守れるような税理士でありたい、 との構想はありますが、 今は第一歩を踏み出したところであります。
 遠い先を見る前に 「ゼロから出発する自分に戴ける信頼を、 焦らず一つずつ積み上げて行くことから始めるべきである」 と思っておりまので (この社会では全ての先生が先輩であるわけですが) 諸先輩の先生方、 なにとぞ宜しくご指導頂きますよう、 よろしくお願い致します。
 巳年は 「再生の年」 とも言われております。
 今年こそ本当に景気回復外、 全てにおいて 「再生の年」 となりますことを祈念致します。


本屋から本が消えた

右京地区  清水 郁雄

 この頃、 本屋に足を運んでも、 がっかりする事が多くなった。 何を買うと決めていなくても、 一昔前は、 あれこれと文芸関係の本を手に取って選ぶ楽しみがあった。 しかし、 この頃、 文芸書自体が非常に少なくなり、 よほど大きな書店でないとあれこれ選ぶ余地がないのである。 もちろん、 ベストセラーは大きなスペースを占めて置いてある。 しかし文庫の少し古いものや、 あまり人気のない作品は、 店頭から追い出されているようである。
 また、 書店でありながら、 CD等に売場を占領され、 申し訳程度に書籍が置いてある所も多いし、 書籍は二階の片隅に追いやられ一階はコンビニやファーストフードのお店になってしまった書店もある。
 私は、 そんなに熱心な読書家ではないが、 活字が楽しみの主体である時代に育ったと思う。 幼い頃は少年少女世界文学全集やファーブル昆虫記等を夢中で読んだ。 青春時代には、 太宰にもはまった。 これははまったという表現が最も適切だと思うのは、 はまった人にはご理解していただけると思う。 もちろんテレビや音楽もあった。 しかし、 本というものは、 別の、 もっと深く感性に訴えるものであり、 ある意味神聖なものであった。 敬意を込めて本を愛していると言えるかもしれない。
 本には普遍的な真実が秘められていると、 今も信じている。 しかしながら、 本屋から本が (雑誌は別として) 減っているのは厳然とした事実である。 それは文芸というもの自体が、 今の世の中にさほど求められていないからかもしれない。
 若者達は、 パソコンやケータイなど新しいメディアに親しみ、 娯楽も多様化している。 若者の活字離れもいわれて久しい。 しかし、 いくらIT革命が進んでも、 書物というものは大切なものとして、 もっと活性化してほしい。 技術が進む21世紀だからこそ、 自らが欲して、 自らが読みとっていくことで得られる心の糧を大切にしていきたい。
 私は、 文芸書などの書物が、 近くの小さな書店でも豊富に並べられ、 若者もそれらを買う楽しみを知っている21世紀であってほしいと願っている。


どっこい生きてます!!  (投稿、 川柳を道連れに)
 
下京地区  伊藤 俊春

 私が求められて、 初めて京税協ニュースに稿を寄せたのは、 昭和も53年のことでした。
 第8号 (昭和53年10月31日発行) に、 「そこに会館があるから」 と題して、 当時の、 会館に寄せる”思い”のつれづれを書かせて頂いています。
 思えば、 その時から、 茫茫23年の歳月が経とうとしているのですねえ。今、 こうして投稿させて頂くことが出来ることを、 しみじみと有難く、 うれしく思います。
 本来私は、 過去を振り返ることは、 好きではありません。しかし、 憶い出の総てを (良きも悪しきも)、 良い憶い出に代えて生きるのなら、 まだ許されましょう。
 今回は、 幸いにして在籍できることの出きる21世紀へ思いを馳せつつ、 今一度、 私の歩んできた道を振り返ってみたいと思います。
 さて、 私が登録させて頂いたのが昭和35年ですから、 ふと気付いてみますと、 なんと40年の歳月が経っていました。「それでいて、 お前は、 それほどの人間か」 と言われますと、 全く面目ありませんが、 曲がりなりにも、 税理士会のお手伝いをさせて頂いた時期もありましたし、 細々ながらも 「信念らしき」 ものを持って仕事をさせて頂けたことを今、 心から喜んでいます。
 そうです、 あれは、 現在の組織が出来上った頃ですから、 もう20年前にもなりましょうか。 突然、 体調の大きな崩れを覚えてしまいました。それ以来の心の葛藤は、 しばしば近税会報やその他の会報で述べさせて頂きましたので、 あるいは、 ご存じの方もあるかも知れません。そのため、 もともと、 その任に適した人間ではありませんでしたが、 思い切って、 会務のお手伝いを総て辞退させて頂くことにしました。
 いえ、 お手伝いは自発的にやらせて頂くのが会員の務めですから、 辞退というのも可笑しなものですが、 お手伝いの第一線から完全に退かせて頂きました。
 そのせいでしょうか、 時折り 「伊藤はどうしてるのや」 とのお声も頂いたそうですが、 本人は体調の保全にひたすら務めて、 今日に至ったという訳です。
 幸いに、 入院加療という大事を迎えることもなく、 世間で言われる言葉に従うなら、 ”摂生”を重ねることで、 生命もまた事業も、 辛うじて命脈を保たさせて頂いていることを、 とても有難く思っています。
 その間、 ともすれば自信を失いがちな私を支えてくれましたのが、 新聞等への投稿であり、 川柳作句でした。
 川柳は句作歴8年で、 まだまだ小学生ですが、 投稿のほうは今年で31年目。 採用され、 掲載されたものも、 やがて2600回になろうとしています。
  「二十一世紀、 何して生きよう後百年」 −まさに字余りですが、 これが、 私の新年を迎えた心境です。

  「心若ければ若し。 生命に年齢なし」  −年齢を忘れて生きることに専心いたします。

  「夢という名の荷車を引き生きる」    −俊春作。


山に登って拾余年

下京地区 南  利憲

 登山は今、 中高年者に大変な人気である。 NHKの 「百名山」 の放映後、 登山は旅行業者にとって集客確実な企画商品となり、 昨今、 無積雪期の休日は多くのツアー登山者で賑わう。
 私も中高年登山者の一人。 登山を始めたのは50才を過ぎてからである。 体重オーバーで子豚の様な自分の姿にガックリ。 減量の為、 近辺の里山に登り始めた。
 昭和63年秋に京都市内のKクラブに入会。 最初の山行は北山の三頭山だった。 この山行は通常の登山道ではなく、 尾根をつめて登頂し、 下山には藪漕ぎで林道に降りるものだった。 今まで、 登山といえば登山地図の実線上を歩くものだと思っていたので、 この様な登山方法はショックだった。
 2回目の山行きは峰山、 朝日峯だったが、 この時は古い木馬道を歩いた。 (この木馬道は林道の新設、 延長により、 今日なくなっている)
 以後、 確定申告期を除いて月3、 4回の山行、 年に2、3回は遠征するようになった。 ちなみにこのクラブは、 平成13年に1000回目の例会を迎える。
 平成7年4月には、 兵庫県に本部のあるH山岳会に入会。 同月、 夜発で北海道の後方羊蹄山、 大雪山、 利尻岳の雪山と礼文島の山行。 春とは名ばかり、 強風の雪山は本当に、 厳しかった。
 こうして、 すっかり山の魅力にとりつかれた私は、 山行以外にも、 沢登りや岩稜縦走などにも参加するようになった。
 その中で、 特に思い出深いのは、 平成10年夏の北アルプス北鎌尾根の岩稜縦走である。 少しでも登山に興味をお持ちの方なら、 すぐご理解していただけると思うが、 このコースは数ある槍ケ岳登頂コースのなかでも地図にも記入されていない大変な難コースである。 60才を過ぎた身で、 このような挑戦が可能になるとは、 登山を始めた当初には思いもよらなかった。 もちろん優秀なリーダーに恵まれたという幸運もあるが、 人間はいくつになっても成長は可能であるらしい。
 通常は大町市の高瀬ダムから水俣川を経て、 天上沢を通り、 北鎌出合を進むコースである。 しかしながら前夜からの雨で高瀬ダムコースの川はかなり水量を増しているので、 やむなくルートを変更、 中房温泉に向った。
 午前6時前に中房温泉の登山口に到着。 表銀座縦走コースを大天井岳 (2, 922メートル) を越え、 大天井ヒュッテで、 ルートを再確認し、 貧乏沢に向う。 急勾配の下りでその上浮き石が多く、 天上沢のテント場に到着したのは4時間後だった。
 これだけでも大変だが、 本番はこの翌日。 北鎌右俣の登りに入る。 行けども行けども巨大な石が積み重なり、 ゆく手をはばもうとする。 ようやく尾根に到達した。 しばらくは尾根づたいで一息をつけるが、 今度は独標から天狗沢までの一直線の急な斜面が我々をまちうけていた。 一歩間違えば滑落間違いなし。 一歩一歩慎重に降りる。
 ここまで来てもまだ3分の1、 いよいよ今回の最大の難所、 絶壁の岩場である。 わずか靴幅しかない所を、 リーダーの張るザイルを命綱とし、 冷汗をこらえつつ進む。 岸壁は前方にまわり込んでいるため、 終了点がまるで見えない。 わずか5分程の行程であるが、 本当に長く感じられた。
 最後は北鎌平までの岩場の急登。 槍ケ岳の山頂は近い。 山頂に安置された祠の横の岩陰から山頂にひょいと出る様は、 あたかもモグラが地上に顔を出すがごとし。 狭い山頂にむらがっている地図上の各コースが合流する、 槍ケ岳の肩から登ってきた人々をすっかり驚かせてしまった。
 この達成感こそ登山の醍醐味である。 私はこれからも山に挑戦し続けていきたい。


税理士○×科

右京地区  芦田 勝博

  「歯が痛い」 と思ったときに眼科に診察を受けに行く人は多分いないし、 急な腹痛を感じた男性が産婦人科の受付で診察券を呈示して長イスに座って順番を待っていることも多分ないでしょう。
  「今日の献立はステーキにしよう」 と思った奥様が八百屋で肉を注文すれば、 少しあぶない人として扱われるでしょうし、 トヨタクラウンを買うためにホンダの店に行けばイヤがらせと思われるでしょう。
 でも、 税理士業界ってそういうところだって思われませんか。
 税理士と名が付けば、 一般の方は税に関する専門家と想像して相談にきて下さるのですが、 私には解らない税金がいっぱいあります。
 私の勉強不足と言われればそれまでですが、 税理士受験時代に手垢で法規集を真っ黒にした法人税法や相続税法と条文を開けたこともない税法とでは、 あまりにも知識が違いすぎます。
 そんな税金に関する相談をされた時、 皆さんはどうされますか。 特殊な地方税に超詳しい税理士さんって、 どうすれば探せるのですか。
 相続税の専門知識のない税理士のところへ相続の相談、 しかもそれが物納や納税猶予の手続きを要するものであったら、 一番被害を被るのは納税者の方ではないですか。 上場を予定している企業、 優良な企業の顧問税理士が個人商店主専門の税理士であったため、 事業承継に失敗した事例もあるのではないですか。
 もちろん、 企業側に税理士を選ぶ権利があり、 知人・取引先・金融機関を通じて適切な人選をする努力をすれば防げたことかも知れませんが、 税理士側にも自分の専門分野を表示する義務があるのではないでしょうか。
 税理士法改正も目前に迫ってきていますが、 その改正も税理士の権利擁護だけでは、 一般国民から近いうちに見放されてしまいます。 権利は義務とのバランスがとれてはじめて主張できるものと小学生の時に教えてもらいました。
 私の師たる税理士は、 私が試験に合格したとき、 一言も 「おめでとう」 とは言って下さいませんでした。 その代わり、 その後訪れてくるあらゆる事例に対応出来るようにと新米の私に依頼されることのない様な難しい事案を提供して下さいました。 その時これが本当の勉強なんだと気づいたのを今でも覚えています。
 税理士への”なり方”ばかりを論議するのではなく、 税理士であることにプライドを持つことと、 そのプライドを持つことが出来るための研修を義務付けることが税理士の地位向上につながるのではないでしょうか。
 広告に関しての規制がなくなる今こそ、 自分の責任のとれる専門分野を明らかにし、 納税者に誠意と義務感・使命感をもって接し、21世紀仕様の税理士として信任される様、 私は頑張ります。


歴史からみた日本の税金

中京地区  嶋谷 俊子

 題名はおかたそうだが内容はいたってくだけたものです。
@大化改新まで
   えだち−労力の提供
   たちから−穀物で納める
   みつぎ−穀物以外のものでおさめる。 貢ぎ物という言葉のはじまり。
A大化改新以降
   租庸調の制度が定められた。
     租−田の面積に応じて稲を納める
     庸−労力の提供、 布で納めることが多かった
     調−各地の特産物で納める 現在発見されている木簡では随分遠くから納められていることが解ってきた
B藤原時代
   皇族や貴族が私有財産として田畑を所有する。 これが荘園のはじまり。 生産者である農民が荘園の所有      者に納める貧富の格差が大きくなってきた。
C鎌倉 室町 戦国時代
   武士時代となる。 租税としては庸・調が衰退して田租で納めることが多く、 農民生活はすます苦しくなる。 年貢と   いう言葉のはじまり。
D江戸時代
   農業の他に商工業も発達してきたが、 租税の多くは地租であった。 百姓は生かさぬよう、 殺さぬようといった言   葉もある。 その他課役 (かやく) と言って臨時の支出に当てるため労力や物品の提供をする。 これが農民達の   大きな負担となり後の維新の政変につながる。
   地子 (じん) 屋敷に課税するもの。 小物成 (こものなり) 商人への課税等も設けられたが、 あまり効果はあがら   なかった。
E明治時代
   明治 6年 地租改正により全国的に金納制度採用
   明治20年 所得税新設
   明治22年 明治憲法が制定され、 納税の義務と租税法律主義が確立 (近代国家として歩み始める)
   明治36年 日露戦争の戦費調達のため相続税新設
F大正時代
   地租中心 間接税中心から所得税中心の税制に移行
G昭和時代
   昭和15年 法人税が所得税から独立
   昭和22年 日本国憲法制定。 民主主義国家としての、 租税法律主義、 納税の義務が明定。 地租は国税から           地方税に移行。 直接税は申告納税制度を採用。
   昭和25年 シャウプ勧告により税制が大きく改正。 地租は固定資産税に。
 平成元年 消費税導入


 以上非常にアバウトなものであるが、 何しろ改正の無い年は無いといわれる税制だから、 その中で戦後しばらくの間施行された取引高税や太平洋戦争中生きている間に相続税を払えば税率が安くなる等調べてみれば興味のあることも多い。 しかしなんと言っても封建領主制度のもとでの租税のすごさ、 収穫米の8割を取られていた所もあった。 お年貢が払えなくてが悲劇のはじまりとなる。 逃散や一揆が続発したのも頷ける。 大寺院が寺領に住む人達から勝手に徴収していた事実も残っている。 京都にもあったらしい。
 やはり、 租税法律主義に守られている現在はしあわせなのだろう。


第27回京税協・大同チャリティーゴルフコンペ
開催日   平成13年3月26日(月)
場 所   グランベール京都ゴルフ倶楽部




川  柳

中京地区 婆 娑 羅

精霊も 正月飾りや 大文字
予言者は オール懺悔の 世紀末
月面の 次は火星だ 今世紀
ロボットも 扶養控除へ 税制改革
温暖か この大雪 この寒波



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