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No.4
萩・長門湯本温泉の旅
短歌
京の文学散歩

京税協ニュース第97号bS


萩・長門湯本温泉 ハートフルコースの旅 4月21日〜22日

1日目 4月21日

峰山地区  黄前 寛

 音信川のせせらぎに包まれた名館 「大谷山荘」 泊、 萩・長門湯本温泉へのハートフルコースの旅。
 小雨の中、 タンゴエクスプローラ号が迎えに近づく。
 6時20分 峰山参加10名全員元気に、 さあ行こう。

峰山 06:20→ 宮津 06:52→ 福知山 07:19→ 園部 08:05→ 京都 08:35→ 小郡 11:43

→雪舟庭 12:20〜13:30→瑠璃光寺 13:40〜14:20→秋吉台 15:00→秋芳洞 16:30→長門湯本温泉 17:00頃

伏見地区  中嶋康江

雪舟庭
 3時間程で小郡に到着。 この日は山口市長選挙の投票日でした。 バスに乗り換えて先ずは雪舟庭 (昼食) へと。
 「吉兆」 のお弁当だなどと冗談を交えながら食事を済ますと、 すっかり新緑に変貌致しました雨上りの庭園です。
 500年前に大内政弘が別荘として画聖雪舟に依頼をし築庭されたお庭を拝観します。
(幼少の頃、 寺に預けられました雪舟さん。 絵ばかり書いていましたので、 とうとう柱に括りつけられ、 それでも足指を使って、 涙で今にも飛びかからんばかりの鼠を描いて和尚さんを驚かせた) という逸話を思い出しながら……皆様と程よい休憩を楽しみました。

福知山地区   浅尾善逸

瑠璃光寺の五重の塔
 旅の最初のほんの立ち寄り程度の、 小京都山口市郊外の瑠璃光寺。 何の予備知識もなかったばかりに、 伽藍も何もない場所に突然、 新緑を背に五重の塔をまのあたりにした時、 こんな処に、 こんな塔がと、 息をのみ、 立ちつくし、 しばし佇んでしまった。
 応永の乱に、 足利氏に破れた大内義弘のために、 弟大内盛見が建立したという。
 法隆寺や伏見醍醐寺の五重の塔の瓦葺の屋根と異なり、 重厚な檜皮葺の屋根が、 軒をゆるく大きく反って、 安定感ある軽快な容姿に、 さすが室町時代和様の塔と、 大内文化に触れ、 しばし立ち去り難かった。 感謝。

舞鶴地区  吉見定幸

AKIYOSHI  秋芳洞を旅して
 初春の4月、 日本一の洞くつを見学した。 大方の人は若いときから1度や2度は入って見たと思いますが、 今回は出口から入口と反対のコース見学をしました。 私の感じたままを記します。
 数10万年を経た洞くつですから、 人間の心をゆさぶるのは当たりまえですが、 その中でも特に感動したのは 「4田町」 「4枚田」 といってもいいでしょう、 自然が作り出したすばらしい田舎の田園風景です。 それと 「4畳敷」 に立ってみるとこれが本当の自然だ。 まるで空想の映画を観ているようで、 人間が生きかえった思いです。 それにしても外界では汚れた政治、 10数年もつづく消費不況、 環境の汚染など気になることが多い世の中ですが地下水が何の汚れもなく流れている姿は私の心に感動を与えてくれました。 御参加されなかった先生方、 この地に立って、 感動を味わって下さい。

左京地区 櫻井 孝

それぞれの朝
 維新の時代、 この時代の不思議さは、 多くの人物が、 役割を持って生まれ、 その役割が終ると大急ぎで天に戻って行った事のように思える。 長州に来ている。 吉田松陰に触れるために来ている。 宿は大谷山荘。 添乗員が自腹で行きたい旅館日本一に選んだ旅館である。 さすがにサービスが良い。 出迎えはお絞りを持って秋芳洞まで来るし、 部屋には握り飯が置いてあるし、 風呂も悪くない。 しかし、 私には部屋がない。 部屋がないまま宴会開始。 宴たけなわの頃、 抜け出し風呂へ。 風呂から戻ると、 H先生があの別嬪のコンパニオンをここへ呼べと矢の催促。 私はそれどころではない。 遅れをとった分の酒を飲まなければいけないのだ! 宴会終了後、 入るべき部屋が見つかるが、 S先生が2つの布団を占領していて寝られない。 仕方なく握り飯を食べながら時間をつぶす。 しばらくして、 S先生が隙間を空けたのでそれに潜り込み安住の地を得る。 朝起きると、 ビールの空き缶が増えている。 握り飯は私が食べた。 しかし、 この空き缶はどうした事か? 9時に寝たB先生が、 夜中に目を覚まし飲んだそうである。 部屋は4人部屋、 重なる事のない夜をすごし、 それぞれの朝を迎えた。 朝食時のビールがうまい。 幸運を思う。

2日目 4月22日

青海島 09:20〜09:50→蒲鉾工場 10:30〜10:50→萩市内 11:00〜13:45

→小郡 15:29→京都 17:55 →峰山 20:49

下京地区   本城治美

青海島
 2日目の朝は、 ガイドさんのてるてる坊主が効いたのかとても良い天気。 仲居さんらの見送りを受け朝九時、 大谷山荘を出発しました。 途中、 童謡詩人の金子みすずが生まれ育ったという仙崎の町を経て青海大橋を渡り青海島 (オオミジマ) へ。 青海島は日本海に面しており、 日本で初めて夏みかんが植えられた地で、 江戸時代中頃海岸に流れついた種を村の娘が拾い自宅に植えたのが始まりとの事。 その原樹も残っています。
 そしていよいよ無数の奇岩洞窟が連なりあい別名海上アルプスと称されている海岸へ
……。 しかし残念。 朝霧でその絶景は見ることができませんでした。

舞鶴地区   橋本彰二

蒲鉾工場見学記
  「おとずれ旅情」 2日目、 青海島の散策は濃い霧のため何も見えない。 海の香りを嗅ぎ深呼吸をしたに終った。
 京税協ニュースの編集長の今井先生に写真を撮ってもらい、 この原稿を書く羽目となった。
 蒲鉾は、 平安時代にちくわに近いものが、 ガマの穂という愛称で呼ばれていたらしい。 それがちくわになり、 板につけて熱を加えたものがガマの穂から蒲の穂、 蒲鉾と呼び名を替えたと言われている。 現在のような板についたかまぼこが登場したのは、 桃山時代になってと言われている。
 焼く方法が中心であったが、 蒸す方法も考え出され、 江戸時代になると、 焼いたものはちくわ、 板についたものだけを蒲鉾というようになった。 ちなみに板のことを座板という。
 工場で製造工程を見学し、 製品を試食する。 「当工場の製品は、 生食用で澱粉は使っていないし、 ふぐ蒲鉾も美味しいよ」 上得意さんの見学に声高にPRする。 蒲鉾は各地で製造されているが、 どこの蒲鉾がおいしいとするかは、 土地の食文化によって異なるが、 試食したら味もよく買いこむ。 舞鶴でも蒲鉾を製造しており、 ぜひ舞鶴の蒲鉾を食べていただきたい。

右京地区   前田 功

萩市内散策
 第2日目湯本温泉大谷山荘を出発して、 青海島を散策し萩市の蒲鉾工場を見学した後、 黄檗宗護国山東光寺に参拝。
 この寺は、 今から300年余前の元禄4年萩藩3代藩主毛利吉就公が開基となって創建された禅寺で、 元禄7年吉就公の没後、 廟所とされ、 以来大照院と並んで毛利家の菩提寺となった。
 文化文政時代の最盛期には、 建物総数約30棟にもおよぶ大伽藍となりその頃の僧数は80人とも云われるが、 しかし明治後の寺禄廃止にともない、 大雄宝殿・方丈・庫裡・鐘楼・総門・三門・土蔵を除く他の建物は解体され、 昭和41年、 大雄宝殿・鐘楼・総門・三門の4棟が国の重要文化財の指定を受けているものである。
 その奥に御廟ともいわれるこの墓所には、 東光寺開基の3代藩主毛利吉就公から11代までの奇数代の藩主ならびにその夫人の墓があり、 それらの右手左手と入口手前に一族関係者の墓がある。 まず目を引くのが、 墓所内に整然と左右均等にずらりと並び立つ約500数基の石燈籠の壮観さに感心した。 この石燈籠は家臣らが寄進したもので、 その一基一基に弔う藩主、 夫人の法名と寄進者名等が刻んである。 墓所内に鳥居があるのが目についたが、 これは神仏習合のなごりであると思われ周囲には老杉檜の大樹が生い茂り森厳な霊域であった。
 そのあと、 吉田松陰を祭る松陰神社に参拝、 鳥居をくぐると 「明治維新胎動之地」 と書かれた大きな石碑 (書は佐藤栄作元内閣総理大臣) があり、 その奥に松下村塾や吉田松陰幽囚旧宅 (杉家旧宅) などがあって、 さらに奥に松陰神社本殿が鎮座している。 かつて、 松本村と呼ばれた吉田松陰の実家杉家の物置小屋を補修し 「松下村塾」 とした木造平屋建で、 8畳と10畳の講義室と塾生控室のこの塾で教えた期間というのは実質的に2年半程しかなく、 安政6年 「安政の大獄」 松陰は江戸へ送られて、 10月伝馬町の獄舎において打ち首となったものである。 この小屋を改造した塾がまさに明治維新胎動之地となり、 高杉晋作・伊藤博文・山県有朋等の人がこの塾生であったことに感動した。
 そのあと萩城下町の昼食場所に向う。

宮津地区  成毛和男

旅の終わりに
 一夜明けてうって変った晴天である。 霧が濃くて視界がはっきりしないのが残念だ。 朝酒が本当に旨い。 旅の醍醐味である。 バスに揺られガイドさんの声を聞きながら松陰神社へときた。 29才の若さで世を去った先生、 時代のリーダーとなった多くの門下生を育てた松下村塾。
  「親思う心に勝る親心今日のおとずれ何ときくらん」
 改めて現代と比較し、 あまりにも親子のきずなの深さを痛感した。 北門屋敷奥ゆかしい建物、 なにより味の良さだ。 つい酒を多く飲んでしまった。 ほろ酔機嫌で小郡へ向う。 帰りのひかり号の中で来年は北陸かなあと、 もうそんな声まで出る程本当に楽しい旅行であった。 心よりお礼を申しあげたい。

短 歌

京税協の旅 「長州路」 下京地区 小田 良三

瑠璃光寺にて

雨雲を かぶりて至る 西の京

五重塔は 緑に煙る

秋芳洞にて

カルストの 地底を穿つ 造形美

百枚皿や 黄金の柱

松下村塾にて

維新為す 元勲たちを 育みし

吉田松陰 日本を憂う


               
  
 

一泊旅行写真コンテスト

<実施要領>
  ○お一人様2点まで
    (サービスサイズの大きさ)
  ○裏面に氏名・地区を明記
<締  切> 平成14年6月14日
<表  彰>
  通常総会 (平成14年7月26日)
  祝賀会の席で表彰

京の文学散歩

 『朱雀日記』  谷崎潤一郎    右京地区 大西 容子

  『朱雀日記』 は明治45年に谷崎潤一郎が東京日日新聞の依嘱で京都を訪れた時の滞在記である。
 潤一郎は明治44年に 「少年」 「秘密」 など立続けに作品を発表し、 前年末に刊行された初期作品集 「刺青」 が評判を呼んだ。 そして 「三田文学」 誌上で永井荷風に激賞され、 文壇での地位を確立したと言われている。 その翌年26歳の時に 『生まれて始めて西京の地』 を踏んだのであった。 4月から5月の若葉の頃、 ちょうど今頃の季節2ケ月ほどを、 木屋町の旅館の2階を宿とし京都に遊んだのである。


 当時の京都は 「京都市100年の大計」 といわれる都市としての近代化が推し進められたときであった。 第2琵琶湖疏水を建設して水利拡張をはかり電力を興す水利事業、 さらに第2疏水の水を浄化して全市に水を供給する上水事業、 そして全市主要道路を拡張し、 電気軌道を敷設して市営電車を走らそうとする 「三大事業」 のいずれもが明治41年から43年にかけて起工され、 現在の京都の姿の基礎はこの時に形づくられたといわれている。 既に京都電氣鐵道 「京電」 の、 いわゆるチンチン電車が京都の狭い町を縫うように走っていたが、 大量輸送をこなす為道路拡幅の後広軌の車体の大きな電車を走らせる事が目指されたのだった。 明治45年6月には烏丸線の塩小路〜丸太町間に初めて市電が開通し、 続いて千本大宮線の壬生車庫〜千本丸太町間
……と順次竣工し、 大正2年8月完成している。 千本通はかつての朱雀大路である。


 朱雀大路は日本古代の都城の中央を南北に通じる主要道路であり、 藤原京、 平城京、 平安京にみられる。 内裏、 諸官庁のある大内裏の南面中央に朱雀門があり、 そこと京の南端の羅城門とを結ぶ大路である。 都城はこの道路によって東西に分けられ左京、 右京と呼ばれた。 平安京の朱雀大路は道幅84メートルもの広さがあったというのには驚かされる。 潤一郎も一日地図を懐に 『平安京の舊蹟を踏査』 に出かけている。 明治28年に大極殿跡を探し出してその敷地のあたりに記念の石碑を建てたものが 『上京区下立賣下小山町の西側と葛野郡朱雀村の一部に跨がって存在して居る』 と記しているが、 現在は千本丸太町近くの公園に石碑が残されている。 朱雀門の位置は現在の千本丸太町にあたるようであるが、 朱雀大路の本来の位置はもう少し西で千本通りとは一致しないらしい。 羅城門は高さ約12メートル幅約32メートルの絢爛な門であったが、 現在は児童公園に標石を残すのみである。


 近代化し変貌していく京都の町に遠い古を偲び 『過去の時代の面影は、 途方もなく現代の勢力の下に蹂躙されて了って居るが、 京都は比較的此の憾みが少ない。 尤もつい近頃は、 市有電車が始まって、 ドシドシ旧態が破壊されつつあるから、 京都の昔を偲ぼうと想う者は、 1日も早く遊覧に出かけるのが肝腎である』 と書かれている。
 我国初の路面電車も昭和53年9月をもって、 京電以来83年の歴史を閉じた。 町家の再活用など色々なところで昔の町並みを残そうとする動きが盛んであるが、 古の都はますます遠ざかるのであろう。
 しかし朱雀日記に記された京の歳時記、 都踊り鴨川踊り、 島原太夫の道中や壬生狂言、 葵祭などは当時と変らず今も受け継がれている。 そして潤一郎が訪れた数々の店に今も老舗として続くものもありその記述がおもしろく興味が湧く。


 潤一郎が京都に着いて最初に案内されたのが、 『麸屋町の佛國料理萬養軒』 であった。 『此處の家もつい此の頃、 医者の住居を其れらしく直して開業したが、 中々評判がいいと云う。 矢張日本造りの畳の上へ敷き物を布いて、 テーブルや椅子がおいてある。 5坪程の奥庭に青苔が一面に生えて、 石灯籠の古色蒼然たる風情など、 洋食屋には少々勿體ない』 とある。 四条麸屋町の店は大正の初めに、 京都電燈株式会社の後に移転したものであるが、 四条の店も残念ながら昨年移転されている。


  『一遍東京人も喰って置くべきである。 人に依って好きずきはあるが、 先ず西京一流の名を辱めないものであろう』 と書かれているのが 「瓢亭」 である。 『春雨のしょぼしょぼ降りしきる日の夕方……南禅寺境内の瓢亭へ車を走らせた。 やがて車の止まったのは、 見すぼらしい焼芋屋のような家の軒先である。 大方車夫が蝋燭か煙草でも買ふのだろうと思って居ると、 おいでやす、 お上がりやす、 と云う声が聞こえて、 幌が取り除けられる。 其此が瓢亭の門口であった』 のである。
 瓢亭の由来は300年ほど前 (元禄中期) 南禅寺へお参りする人の休憩所 (茶店) が店の起りで、 「瓢亭」 と名乗って料亭の暖簾を揚げたのは、 1837年 (天保8年) 8月15日のことだという。 そう記した看板が今に残っているからだそうだが、 これほど歴史を持つ老舗の創業年月日がはっきりしているのも珍しいとある。 現在も茶店らしい風情はそのままで、 高級料亭といった豪勢な玄関は見当らない。 すぐ目の前の白川通りは、 休日にはたくさんの人で賑わっているが、 この店先は静かにゆっくりと時間が流れているように感じられる。 むかし東海道の裏街道すじであったところから、 京へ上がる旅人は、 ここで旅衣を更え草履を新たにして三条大橋へ向かったそうな。 そんな風景がそのまま甦るような……。
  『京都の食べ物は淡白で水っぽくて、 東京人の口にはあいそうもない。 ……京都に長く滞在して、 なによりも不自由を感じるのは、 東京流の女と食物の欠乏である。 酒がうまいだけに猶更其れを遺憾に思う』 と朱雀日記は結ばれている。


 しかしその後谷崎潤一郎は大正12年に関東大震災を逃れて、 上京区等持院に住み、 戦後21年には南禅寺下河原町に居を構えその後下鴨へ転居し熱海へ移るまでの10年近くを京都に暮らしている。
 又昭和8年に発表された 「春琴抄」 の大半が京都の高雄山の地蔵院で執筆され、 前後7年にわたった 「細雪」 が脱稿された昭和23年5月を南禅寺の自宅で迎えているのである。
 初めて京都を訪れたときにはよほど口に合わなかった食物も、 孫の渡辺たをりは 『母が毎年毎年季節ごとに筍だとか松茸はもちろんの事、 白ぐじ、 牛肉、 とり肉、 鱧ずし、 等々とにかく送れるものなら何でもどこにでもあるような茗荷や、 おなす、 きゅうりなどまで京都の方がいいと言うので熱海へ送らせていたのを覚えている』 と記述している。
 そして今谷崎潤一郎は左京区の法然院に眠っている。
  「私は京の生まれではないけれども京好きの点では京都人に劣らない」 という言葉を残して。

『我といふ人の心はたヽひとり
  われより外に知る人はなし』
     谷崎潤一郎の書より

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