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支部連新春講演会    
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テーマ『であい』      
支所だより/理事会報告 
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No.3
全税共優績営業職員表彰式
自由業団体ソフトボール大会
京の文学散歩        


丹後七姫伝説

 丹後 (舞鶴市・宮津市・岩滝町・大江町・加悦町・野田川町・大宮町・弥栄町・峰山町・久美浜町・網野町・

丹後町・伊根町) の観光協会は共同して『丹後七姫』 を定めました。

 ここでは丹後七姫の横顔を紹介したいと思います。

     **********

羽衣天女    (はごろもてんにょ)

 昔、 磯砂山の山麓で八人の美しい天女が水浴びをしていました。

その様子をそばで見ていた老夫婦が1人の天女の羽衣を隠して

しまったため、 その天女は天に還ることができなくなってしまい、

やむなく老夫婦の養女として暮らすことになりました。

 天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝え、 老夫婦はすっかり裕福になりましたが、 ある日老夫婦は 「汝は我が児に

非ず」 として天女を追い出してしまいました。

 悲しみに暮れた天女 〔豊宇気比売(とようけびめ)〕 は、 奈具の村に行き着き……

 峰山町に伝わる羽衣伝説は、 丹後風土記にも登場する日本最古のもので、 奈具神社には豊宇気比売がお祀り

されています。  

静 御 前    (しずかごぜん)

 源義経の寵愛を一身に受けた美しい白拍子の静御前は、 網野町に

生まれたとの説があります。

 源頼朝によって義経と引き離され、 宿していた義経の子も生後直ぐに

殺されてしまった傷心の静は、 生まれ故郷の網野へ戻り、 この地で

20余歳の短い生涯を終えたのだと云います。

 静の死を悼んだ村人達は、 静神社を建立し、 彼女の御霊を慰めることにしたそうです。

(つづく)


 短  歌   下京地区 小 田 良 三

  イングランド紀行
 
・ オックスフォードにて
    学び舎の 赤き煉瓦の 佇まい
         高き誇りを 今に残して
 
・ ウィンストン・チャーチル卿の生誕地にて
    牧草の 緑に白き ひつじ群れ
         冬の狭霧に 浮びては消ゆ
 
・ ドーバー海峡にて
    ドーバーは 冬日柔らか 断崖に
          白く小さく 打ち寄せる波

地区連絡部門一泊旅行

長門湯本温泉

開催日 平成14年4月21・22日

 多数のご参加をお待ちしております。

第16回(平成13年度)
 全国統一キャンペーン
  優績営業職員表彰式

 京都税理士協同組合では、 去る1月17日、 京都税理士会館3階ホールにおいて平成13年10月より

実施された 「第16回全国統一キャンペーン」 で、 特に優秀な成績を挙げられた方々の表彰式を挙行しました。

 式は定刻に、 吉澤俊二専務理事の司会で開始され、 田島博昭副理事長の開会のことばに続き、

上田寛理事長が挨拶されました。 挨拶では、 まずキャンペーン前に予告していたホテルでの表彰式ができなく

なった経緯を説明し、 お詫びされました。 この最悪の経済状況の中ご出席いただいた皆様は、 保険の専門家として

指導力を発揮されたからこその結果、 と大いに讃えられました。 続いて林伸三郎副理事長より経過報告があり、

例年なら続いてご来賓の方々にご挨拶いただくところですが、 自粛し、 表彰式に移りました。

 まず、 VIP大型総合保障制度で唯一理事長賞に輝かれた、 朝日生命の久下萬理子さんが表彰され、 次に金賞の

受賞者を代表して住友生命の森下晴美さんが、 銀賞を代表して第一生命の甲斐幸子さんが、 銅賞を代表して

明治生命の野間智英子さんが、 努力賞を代表して日本生命の野村加代子さんが、 それぞれ壇上にて理事長より

表彰されました。

 続いて連続5回以上入賞されました方に贈られる賞に 「雅ファイブ」 という名称を付けていただいた第一生命の

三宅俊信さんにタイトル賞が贈られました。 そして 「雅ファイブ」 には、 13年連続入賞の久下萬里子さんを始め

9名の方を代表して、 10年連続入賞の朝日生命利倉秀子さんが壇上にて理事長より表彰されました。

 優秀機関長賞は朝日生命の中西重壽さんが代表して壇上にて理事長により表彰されました。

 最後に優秀支社賞を、 朝日生命と住友生命が受賞され、 それぞれ代表者が表彰されました。 表彰されました

皆様方の姿は大変晴れがましく頼もしく見えました。

 続いて受賞者を代表して理事長賞及び雅ファイブに輝いた朝日生命の久下萬理子さんが謝辞を述べられ、

祝電の披露の後、 廣瀬伸彦副理事長が閉会のことばを述べて表彰式は終了しました。 例年なら式終了後に

懇親会が催されるのですが、 それも自粛され、 その代わり福袋が用意されました。 受賞者の方々は、 楽しそうに

選んでおられました。

 今年度は突然の全税共からのお願いで、 苦心した表彰式でしたが、 厳かでなごやかな式になりました。

  

謝  辞

 受賞者を代表いたしまして一言ご挨拶申し上げます。

 本日は 『第16回全国統一キャンペーン』 の表彰式にお招きいただきまして誠にありがとうございました。

 伺いますれば今回の入賞者は5社58名とのこと、 昨年の表彰式を思い起こしますととてもさびしい気が

いたします。 この数字からも、 今回のキャンペーンでは例年になくご苦労された方が多かったのではないかと

思われます。

 逆風を乗り越えみごと入賞された皆様には心よりお慶び申し上げます。

 さて周りを眺めてみますと国内景気は依然として低迷をつづけており、 更にはアメリカで発生したあの忌まわしい

同時多発テロの影響等も重なり混迷状態からなかなか抜け出せずにおりますが、 私たち生保業界にとりましても

引き続き厳しい状況が続いております。

 このような状況の中にあって生命保険にたずさわる者にとっては、 お客様の立場に立った真のセールス活動に

徹することがますます重要になってきております。

 私達は経営者の方にも数多くお会いしますが、 昨今のように経営環境がますます厳しくなる中にあっては

尚のこと、 経営者の皆様が安心して仕事に専念できるよう最適な保障を準備してあげることは私達の大切な任務の

ひとつと考え、 全税共扱い契約をお勧めして参りました。

 このことは税理士先生方におかれましてもご理解いただける所かと思いますが円満な事業承継の実現や

遺族の生活資金の確保等、 関与先企業の繁栄のためにもこの場をお借りして今後更なるご支援をお願い申し

上げる次第であります。

 最後に、 私達はこの全税共キャンペーンを年間行事の1つとして又他社の職員と共に

懇親を重ねることが出来、 楽しみに全税共契約の販売に頑張って参りました。 今回は少し残念な気がいたし

ますが、 これも厳しい時代の流れかと感じている次第でございます。

 最後になりますが京都税理士協同組合のますますのご発展と本日ここに出席されておられる皆様の更なる飛躍を

祈念申し上げ、 大変簡単ではございますが御礼のご挨拶とさせていただきます。

 平成14年1月17日

  朝日生命保険相互会社
 京都支社 下京営業部
      久 下 萬理子

京都税理士協同組合
 理事長 上田 寛 殿

         受賞者ご芳名           (順不同・敬称略)
VIP大型総合保障制度 連続入賞 「雅ファイブ」タイトル受賞
理事長賞 第一生命京都南支社
朝日生命京都支社  三 宅 俊 信
 久 下 萬理子 雅ファイブ (連続入賞者)
金 賞 朝日生命京都支社
住友生命京都支社  利 倉 秀 子 他8名
 森 下 晴 美 他7名 優秀機関長
銀 賞 朝日生命京都支社
第一生命京都支社  中 西 重 壽 他7名
 甲 斐 幸 子 他8名 優秀支社
銅 賞 優秀支社30
明治生命京都支社 朝日生命京都支社
 野 間 智英子 他28名 優秀支社
努力賞 住友生命京都支社
日本生命京都支社
 野 村 加代子 他10名


京都市からのお知らせ

 平成14年度 償却資産 (固定資産税) の
 申告・給与支払報告書 (住民税) の提出は1月31日まで

 平成14年度償却資産 (固定資産税) の申告期限及び給与支払報告書の提出期限 (1月31日) が近付いて

きましたが、 顧問先の方がまだ申告・提出されていない場合には、 速やかに申告・提出をしていただくよう御指導、

御協力依頼をお願いします。

申告書等の提出先・問合せ先

 申告書等の提出、 用紙の請求、 その他の問い合わせ等については、 申告書等を送付しました市役所・区役所、

支所までお願いします。

○償却資産関係…資産所在の区役所、 支所の固定資産税 (課税) 課

○給与支払報告書関係…京都市理財局税務部法人税務課特別徴収係
(本市では平成13年4月の組織改正により、 提出先が、 各区役所から市役所に一元化されました)


第8回京都自由業団体懇話会
  親睦ソフトボール大会

 11月10日、 第8回京都自由業団体懇話会親睦ソフトボール大会が、 京都府山城総合運動公園に於いて開催

された。 当日はそれぞれの業界を代表する精鋭8チームが、 各会の名誉をになってプレーした。 わが税理士会

チームは、 初戦で行政書士チームを11対7で破ったものの、 2回戦で司法書士Bチームに12対13で惜しくも

敗退した。 しかし、 3位決定戦で公認会計士チームを9対8で破り、 見事3位に輝いた。

   **********

第8回自由業団体
ソフトボール大会を
     振り返って
                 中京地区 鴨井 勝也

 第8回京都自由業団体懇話会真剣 (?) ソフトボール大会に参加させていただきました。 実は私、 恥ずかしながら

この大会を参加者のなかで一番心待ちにしていたと思います。 公式審判員の方々による、 かつ、 すばらしい球場

での試合、 滅多に経験できるものではありません。 事実、 当日も集合時間より1時間以上前に到着するといった

具合に気合いの入れようは相当でした。

 結果といえば、 ご覧のようになんとか3位を確保したものの、 前年に続き司法書士Bチームに再逆転負け。

ウィンドミル投法の本格派ピッチャーに加え、 サインによる盗塁やバントといった、 いやらしい (いやいやすばらしい)

攻撃の前に屈したのです。

 「来年こそは、 来年こそは」 と何か勘違いしている程、 悔しい思いを致しました。 次回も参加させて頂けるので

あれば、 もうすぐ40歳になることですし、 今度はクールに戦いたいと思っております。


チャリティー寄託

 過日開催致しましたVIP君・ランちゃんチャリティーゴルフコンペを含む計2回のゴルフコンペと一泊旅行の際に

ご協力いただきましたチャリティー金865,000円と、 その他組合員の善意

152,865円、 併せて1,017,865円を去る12月3日、 粟田副理事長と

吉澤専務理事が京都新聞社を訪れ、 京都新聞社会福祉事業団に寄託しました。

 紙面をお借りして、 善意をお寄せいただいた多数の皆様に厚くお礼申し上げます。

 なお、 当組合からのチャリティー寄託は20回目となり、 総額は、 12,616,608円となりました。


京の文学散歩

−上村松園 『青眉抄』 −

下京地区 臼田多惠
私は大てい女性の絵ばかり描いている。
しかし、 女性は美しければよい、 という気持ちで描いた
ことは一度もない。
一点の卑俗なところもなく、 清澄な感じのする香高い珠
玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。
   … (中 略) …
真・善・美の極致に達した本格的な美人画を描きたい。
                    「青眉抄」

  『青眉抄(せいびしょう)』 は、 近代を代表する美人画家上村松園が画業50年を記念してまとめた唯一の随筆集

であるが、 幼い頃の思い出や興味をもった事柄等、 そのすべてが絵につながっていることに驚かされる。

他に松園が新聞や美術誌に書いた文章をまとめたものとして 『青眉抄その後』・『青帛(せいはく)の

仙女(せんにょ)』 があるが、 やはりすべてが絵につながり、 松園にとって絵はまさしく人生そのものであったことが

わかる。

 昭和57年に宮尾登美子が発表した小説 『序の舞』 は松園をモデルとしており、 もちろんストーリーはフィクション

であるが、 場所や時代背景はそのままで、 当時の京都で絵にかけた松園の生き様を強く感じることが出来る。

 それでは松園の生涯を追いかけながら現在の京都の街を歩いてみよう。

 松園 (本名津禰(つね)) は明治8年に京都市四条御幸町西入ルの葉茶屋に生まれた。 生まれる2ヶ月前に急な

病で父を亡くし、 「母と父をかねた両親」 と表現する気丈な母仲子に育てられる。 生家は 「今、 万養軒といふ

洋食屋になっているところ」 と 『青眉抄その後』 に記されているが、 その洋食屋もつい昨年移転し、 今はアメリカの

老舗洋品店が店を構えている。

 幼い頃から絵ばかりかいていた少女は、 やがて仏光寺にある開智小学校に入学。 図画の中島真義先生に

その画才を認められ、 小学校を退学して日本初の画学校である京都府画学校へ進学、 画道のスタートをきる。

当時は絵描きなど道楽のようなものと思われていた時代で、 親戚の大変な反対があったが、 母は 「つうさん

(津禰の愛称) の好きな道やもん」 と言って受け付けなかった。 生涯松園を支えつづけた母について、 のちに

松園は 「私は母のおかげで、 生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、 それと闘えたのであった。

私を生んだ母は、 私の芸術までも生んでくれたのである」 と述べている。

 開智小学校は、 近年の学校統廃合により、 今は 「京都市学校歴史博物館」 として

その姿をとどめているが、 残念なことに門は明治26年に御幸町側に移転され

明治34年に現在の姿となったもので、 津禰の通っていた明治15年頃は麩屋町側に

面した冠木門であったらしい。

 京都府画学校の校舎はちょうど今の京都ホテルのあたり。 その周囲は広い空き地で、 いちめんの花畠だったと

いう。 その後画学校はいくつかの変遷をへて、 現在は土手町竹屋町上ルにある京都市立銅駝美術工芸高等学校と

なっている。

 画学校では四条派の鈴木松年に師事するが、 入学して1年後に学校に改革があり、 陶器の図案や工芸美術の

部が出来たために純正美術派の教師達が 「職人を養成するところではない」 と反発し、 大半が辞職。 その時

辞職した松年について津禰も学校をやめ、 松年塾の正式な塾生となった。 数年後、 津禰は松年より松園という

画号を授かる。

 やがて松園は画の世界をより広げるべく同じ四条派の幸野楳嶺塾へと移るが、 同じ四条派の系統でも〈雄渾で

渋い画風〉 の松年と〈艶麗で華々しい画風〉 の楳嶺とでは右と左の相異があり、 2つがごっちゃになって、 自分には

まともな絵をかく才能などないのではないかと悩み苦しむ。 しかし 「師に入って師を出よ」 という松年の言葉に、

両先生の長所に自分のいい処を加えて工夫し一派をあみ出そうと思い至り、 凛として侵しがたい気品を持った

松園風の画を確立していくのである。

 入塾後わずか2年で師楳嶺は他界。 楳嶺門四天王がそれぞれの塾をおこすなか、 松園は竹内栖鳳塾の塾生と

なった。

 松年塾は東洞院錦小路、 楳嶺塾は新町姉小路、 栖鳳塾は御池油小路にあったというが、 今は当時をしのぶ

ものは何もなく、 昔ながらの家と近代的なビルが混在するなかでマンション建設反対のビラがやけに目につく。

 松園は幼い頃から人物を描くことが好きであったが、 当時は人物画、 特に女性描写のものは少なかったため、

絵をならいはじめた頃から博物館や神社、 お寺の秘蔵画など参考になると思われるものをひたすら縮図した。

祇園祭に各家々に飾られる屏風などは格好のものであったらしい。 1年にたった2日間の祇園祭で、 一曲の

屏風の縮図に3年かかったこともあるといい、 毎年祇園祭になると屏風の前で縮図する松園の姿は、 その頃の

京の町の名物であったとか…。 元旦の朝から博物館に乗り込み、 1日中縮図して係員を驚かせたこともあったと

いう。

 しかし精魂こめて描き溜めたこの縮図を、 松園は20歳の頃に火事により1度失っている。 隣家からの火により

何一つ取り出すひまもなく焼け出され、 呆然とする松園を力づけたのは、 やはり母であった。

 火事にあったのち松園一家は、 高倉蛸薬師下ル、 堺町四条上ルと転居。 明治35年に長男信太郎 (日本画家

・松篁) を産むと、 その翌年には車屋町御池下ルに居を構えた。 その頃にはようやく画業だけで暮らしていける

ようになり、 葉茶屋を廃業している。

 車屋町の家は2階がすべて画室になっており、 松園は食事の時以外ずっと

2階にいたため、 幼い松篁は松園を 「2階のお母さん」 と呼んでいたらしい。

画室に上げてもらえるのは年に1度、 大文字の日だけであったという。

 大正3年に間之町竹屋町上ルに画室を竣工。 そこでは四囲に堀り池を

廻らして魚を放ち、 その外側を藤棚やゆすら梅で囲んで、 小鳥や兎、 はては狐まで飼っていた様である。

この画室を、 「朝の一瞬、 貧しいながらここは私にとってまったくの浄土世界です」 と松園はいたく気に入って

いたが、 戦局が厳しくなった昭和20年、 松篁のすすめでしぶしぶ奈良にあった松篁の画室 「唳禽荘

(れいきんそう)」 に移る。

 しかし都落ちというような思いで移ってきた奈良ではあったが、 いつしかその自然の美しさにひかれ、 京都に

戻ることなく松園はこの地で74才の生涯を閉じた。 今は両親の墓に守られるように洛東大谷廟に眠っている。

 間之町竹屋町の画室は昨年3月に亡くなるまで松篁氏が、 奈良の 「唳禽荘」 は現在も孫の淳之氏が住んで

おられる。

 後年、 松園は自分の人生を振り返りこう語っていた。 「私は一生姉様遊びをしていたようなものです」 と。


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