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『民事再生法のその後』  
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丹後七姫伝説   

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チャリティーゴルフコンペ
京の文学散歩道    

「またまた、勝ってしまいました。」
                        下京地区 渡邉 重樹

 

去る9月22日土曜日、 快晴のもと、 二年振りに山科勧修寺グランドに戻ってまいりました。

支部連合会主催のソフトボール大会で、 我が下京支部チームは、 またまた優勝させていただきました。

昨年は、 雨天のため中止となりましたから、 連覇といっていいでしょう。

本当にうれしく思います。


 戦力的には、 他支部が新戦力を投入してきたという情報 (?) がありましたのでどうかなと思っていましたが、 我がチームも一昨年の力に劣ることなく、 切れ目のない打撃と、 固い守備力で、 それを決勝戦まで持続できたのが、 今年の勝因ではなかったでしょうか。

それと、 今年からそろえたユニフォーム (Tシャツですが……) で選手の心が一つになれたことも勝因だったと思います。
  試合は、 1回戦、 中京支部との対戦でした。

前半リードされていたのですが、 終盤、 逆転でき、 かろうじて1点差で勝ちました。

2回戦では右京支部と対戦しました。

今年の右京支部は大変強く、 正直言って一番手強かった相手だと思いました。 (他支部の方々、 ごめんなさい)

結果は引分けで、 ジャンケン勝負となり、 勝たせていただきました。

ジャンケンの練習をした結果がでたのかもしれません。 (ウソですよ)

そして決勝戦、 やはり勝ちあがってきたのは伏見支部でした。

いつもの様に強いチームでしたし、 3連投の我がチームのエースも大丈夫かなと少し心配しましたが、 エースの踏んばりと後半の打線の爆発、 そして、 ここまで勝ちあがってきた勢いで優勝させていただきました。

今年は結構厳しい試合内容でしたので、 試合後の祝勝会も例年になく盛り上がり、 みんな夜遅くまで勝利の美酒に酔いながら、 来年の勝利を誓い合っていました。


  一昨年の優勝に続き、 連覇できたのは、 選手そして応援団が最後まで一つになって戦った結果だと思います。

でも今年の試合を見ていると、 他支部のチーム、 どこも強くなっていました。

来年はもっとレベルアップしてくると思いますので我がチームも、 精進し、 1年後も優勝トロフィーを死守できる様、 頑張りたいと思います。


  終わりになりましたが、 試合に出場して下さった各支部の選手の皆様、 応援に駆け付けていただいた皆様、 本当にありがとうございました。

そして色々ご準備下さいました大会関係者の皆様にも心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。


組合の動き

9・26  事業委員会開催 (新規提携企業の検討について他)


9・26  事業推進協議会開催


9・28  日本税理士協同組合連合会第6回通常総会に出席


10・ 2   ゴルフ世話人会開催 (全税共チャリティーゴルフ開催について)


10・ 2   右京地区・大同生命との地区別連絡協議会開催


10・ 4  大同生命とのミニ業務推進会議開催


10・ 5  正副理事長会・常務理事会・理事会開催


10・ 5  保険委員会開催 (保険の業務報告について他)


10・ 9  学院・実務講座開講 「消費税の仕組みと実務」・全5回 (第1回)
  講師 岡本博之先生
  参加 32名


10・11 法規・諸規則委員会開催 (今後の方針について他)


10・11 学院・短期講座開講 「企業組織再編税制」
  講師 平野敦士先生
  参加 59名

10・15 園部地区・大同生命との地区別連絡協議会開催


10・16 学院・実務講座開講 「消費税の仕組みと実務」・全5回 (第2回)
  講師 岡本博之先生
  参加 32名


10・18 VIP君・ランちゃんチャリティーゴルフコンペ開催
  於 瀬田ゴルフコース
  参加 117名


10・19 全国税理士共栄会第27回定期総会に出席 (於 京王プラザホテル)


10・22 学院運営委員会開催 (今後の学院運営について)


10・22 宇治地区・大同生命との地区別連絡協議会開催


10・23 大同保険推進協議会に出席 (於 芦原グランディア芳泉)


10・23 学院・実務講座開講 「消費税の仕組みと実務」・全5回 (第3回)
  講師 岡本博之先生
  参加 32名


10・25 旅行世話人会開催 (平成13年度の一泊旅行について)  


10・25 保険第一小委員会開催 (今後の取り組みについて他)


10・26 保険第二小委員会開催 (今後の取り組みについて他)


10・26 全税共・事務委託組合連絡協議会に出席 (於 日本税理士会館)


10・31 編集委員会開催 (第95号の編集方針について)


11・ 1 下京地区・大同生命との地区別連絡協議会開催


11・ 2 トリニテーシステム特別講演会開催
  参加 123名


11・ 5 保険委員会開催 (第一・第二小委員会同時開催)


11・ 5 大同生命との連絡協議会開催


11・ 6 学院・実務講座開講 「消費税の仕組みと実務」・全5回 (第4回)
  講師 岡本博之先生
  参加 32名


11・ 7 編集委員会開催 (第95号の編集割付について)


11・ 9 学院・税理士事務所職員研修講座開講
「税理士業務で知っておきたい民法・商法」
  講師 山下眞弘先生
  参加 52名


11・13 学院・実務講座開講 「消費税の仕組みと実務」・全5回 (第5回)
  講師 岡本博之先生
  参加 32名


11・13 第5回京税・大同代理店協議会ゴルフコンペ開催
  於 琵琶湖カントリー倶楽部
  参加 47名


11・15 編集委員会開催 (第95号のゲラ校正)


11・16 編集委員会開催 (第95号のゲラ再校正)


11・22 学院・短期講座開講 「金融商品の会計と税務」
  講師 岩本吉志子先生
  参加 33名


11・22 左京地区・大同生命との地区別連絡協議会開催

理事会報告

 平成13年度第4回理事会を10月5日午後2時より開催致しました。 当日の出席状況は次のとおりでした。


  理 事 46名
  監 事  3名
  相談役  5名


[決議事項]


第一号議案 組合加入承認の件


 次の10名の組合加入が承認されました。
 なお、 組合員総数は、 1,428名、 出資金総額は14,008万円となりました。 (申込順・敬称略)
    
井上 和子

犬飼  利和

鈴木    勝

大村  由美

吉田  和男

豊田    稔

人見  孝文

小西  康夫

稲葉真左巳

千原  將明

第二号議案 「京税協設立30周年記念事業実行委員会」 設置の件


 第30期を迎えるにあたり、 京税協設立30周年記念事業実行委員会設置を検討しており、 構成員にはまず正副理事長会構成員を予定している旨説明があり、 出席者全員に諮ったところ、 全員異議なく承認しました。


第三号議案 基本問題検討特別委員会設置の件


 先の役員改選に伴い、 基本問題検討特別委員の一部交代について議場に諮ったところ、 全員異議なく承認されました。
 新たに委嘱された委員及び退任された委員は次のとおりです。 (敬称略)


○委嘱された委員
田島 博昭

吉澤 俊二

田中 裕司

小坂 文夫

西村 公克
 
○退任された委員

今西  衞

大 友紀

知見   憲

福島 昭一
 


[報告事項]


1 財務報告


 二股財務委員長より8月末時点での財務報告がありました。 役員改選に伴う委員会開催数の増加及び大同生命の新施策の為、 支出が増加している旨報告があり、 特に問題となる発言もなく全員了承しました。


2 各部門報告 (主要事項)


○支部連協賛事業への協賛金及び 「税を知る週間」 への協賛金の支出について…厚生関係事業・税を知る週間等の支部連行事に対し、 昨年同様協賛金を支出することが報告されました。


○教育情報資料 (選定図書) について…今回は各先生に選定していただく方法を取る旨報告がありました。


○立命館大学への推薦及び推薦基準について…推薦基準について立命館大学と協議していく旨報告がありまし た。


○第16回全国統一キャンペーンの取り組みについて…本年度も連続入賞の表彰を予定している旨報告がありました。
 また、 本年度も各生保会社の決起大会への訪問を行い、 計7社訪問した旨併せて報告がありました。


○第5回京税・大同代理店協議会の開催について…11月13日に代理店協議会のゴルフコンペを琵琶湖CCにて開催する旨報告がありました。
 また、 保険部門の中に2つの小委員会を立ち上げ、 第1小委員会は代理店の増強と推進、 第2小委員会は代理店の教育とフォローを担当する旨併せて報告がありました。


○トリニテーシステム特別講演会の実施について…11月2日京都全日空ホテルにおいて特別講演会を開催する旨報告がありました。


○新規提携企業 (候補) について…椛蜥ヒ商会・潟Wェイティービーの2社を新規提携企業とし、 決議事項として議場に諮ったところ、 全員異議なく承認しました。


○組合員ハンディブック (第4版) の作成について…従来の体裁をA4版に変更し、 組合への紹介報告書・ホームページ紹介を追加する旨報告がありました。


○平成13年度一泊旅行の開催について…日程を来年の4月21日・22日に予定している旨報告がありました。


○両丹地区組合員との懇談会開催について…開催地は福知山地区で予定している旨報告がありました。

事業部門よりお知らせ
過日各支所を通じて配布致しました税理士会員名簿 の巻末に、提携企業便覧 を掲載しております。 (カラーページ)

各企業とも組合員の先生には特別価格を提示します。

ぜひご利用下さい。

詳しい内容を掲載しました 「組合員ハンディブック」 を12月中旬にお手元へ届けさせていただきますので、 併せてご利用下さい。


シリーズ 京都のひと

新島八重子 (1845〜1932)

 京都には、 有名人、 偉人は数限りない。 が、 「京都のひと」 は”そういえ
ば京都にはこんな人がいたなー”と思い出し、 ”そうか、 この人も京都にい
たのか”と思い描いて読んでいただきたい。 この 「ひと」 を通して京都の歴
史に少し触れる機会を持っていただくと有難いと思う。

中京地区 中村 裕人

 鹿ケ谷通を若王寺神社に向かって東に入り、 神社の右手をのぞくと細く暗い山道が口をあけている。 山の入口に

「新島先生墓 (同志社共同墓地)」 の石碑がなければ、 ハイカーでも立ち入る気にはならないだろう。


 新島八重子の話を書くに当たって資料を集めたが、 最後に墓を訪れようと思う。


 昼なお暗い急な坂を15分程登ると彼方此方に無数の墓石が現れる。

真っすぐ進むと鉄柵に囲まれた比較的広い平坦地があり、 正面の門から真っすぐ石畳が一際大きな墓に続いている。

新島襄の名が刻まれている。 そしてその左側に寄り添うように新島八重子の墓が立っている。

新島 襄

(同志社女子中高所蔵)


新島八重子は明治4年、 当時京都府顧問であり京都における文化や政治経済の指導的人物として、 中心的な役割を演じていた兄、 山本覚馬を頼って京都に来、 翌5年には日本最初の女学校であった女紅場 (京都府立第一女学校の前身) の副舎長兼教導試補に任ぜられた。 


 また、 八重子は髪を洋風に結い、 靴を履き、 洋学所に通って英語を学ぶなど当時の代表的な新女性であったと言われている。

英語の勉強がキリスト教に結び付いたのも、 当時の風潮であった。


 明治9年には覚馬と意気投合し山本家に出入りしていた襄と結婚し、 キリスト教の洗礼を受けたが、 これはキリスト教が200年以上禁止された後京都において行われた初めての洗礼であり、 キリスト教風の結婚式であった。


 八重子と襄の結婚は、 同志社創立の後であるが、 三条大橋橋詰の旅館目貫屋に逗留していた襄のところに聖書を習いに通うようになった八重子に新島は、 理想の女を見いだしたのであった。


 10年間をアメリカで過ごした襄にとって、 それまでの日本の内気な女性は物足りなかった。

彼は、 父宛の手紙にも、 結婚の相手としては、 「日本の女性の如くなき女子」 という表現で、 近代的な西欧型の自我に目覚めた女性を求めている。

そんな彼の目に、 八重子の姿は、 きわめて理想的な存在に見えたのであろう。


 同志社の発展は、 こうして山本兄妹と新島襄の同士的な結束のもとに大をなして行ったが、 新島夫妻の生活は14年の短いものだった。


 明治23年、 各地への講演やキリスト教の伝導、 同志社の運営のための寄付金集めなどに奔走して身体を壊していた襄が、 療養先の大磯で亡くなってしまった。


 しかし、 その後も、 八重子は同志社の生徒達をわが子として見ていた襄の遺志を引き継ぎ、 財産のすべてを寄付し同志社を守り続けた。


 また八重子は日清、 日露戦争において篤志看護婦として傷病兵の看護に従事し、 それぞれ勲七等宝冠章・勲六等を授与され、 昭和3年の御即位の大礼には、 天盃を賜っている。


 このように八重子は、 封建時代に縛られた時代の女性としてはまれにみるトップレディーとしての生涯を送った後、 昭和7年86歳でその人生の幕を閉じた。


 しかし、 八重子のこのバイタリティーは出身地の会津若松時代に既に芽生えていたと言えるだろう。


 時は遡り明治元年の戊辰戦争の最中、 場所は会津鶴ケ城、 8月20日、 二本松を出発した薩摩・長州・土佐・大垣・大村諸藩の約3千人の新政府軍は、 会津藩の最も防備の薄い石筵口を破って進軍し、 22日の朝には早くも若松郊外の戸の口原に押し寄せて来た。

このためこの方面の防備はいよいよ危殆に瀕していた。


 敵のこの急襲に狼狽した松平容保公は、 その頃国境方面に出動していた会津藩の諸隊を呼び戻すため、 各方面に急使を走らせると同時に、 士中白虎隊を緊急召集し、 自らこれを率いて滝沢峠に赴き、 敵の進攻をくい止めようとした。

だが、 新鋭火器を持つ敵の大群である。

会津方はじりじり押しまくられ、 前線に進軍した白虎二番隊も散り散りになってしまい、 23日の朝、 容保公は僅かの護衛兵と共に、 辛うじて鶴ケ城外郭の甲賀町口に馳せ戻ったのである。


 この時、 会津藩の精兵は、 みな越後口・白川口・日光口等の各方面に遠征していて、 城内に残っていたのは老幼婦女と非戦闘員の文吏ばかりであった。


 鶴ケ城の危急を告げる割場の警鐘が打ち鳴らされ、 家中の婦女子は続々、 三の丸へと入城して来、 若い女性は大抵その腰に大小刀を差し、 薙刀を小脇に抱えて繰り込んで来た。


 これらに混じって、 唯一人、 男装をして、 7連発のスペンサー銃を肩に担ぎ、 颯爽と入城してきた若い女性がいた。 当年24歳の山本 (旧姓) 八重子であった。


 この頃、 城内に残されていた小銃は火繩銃またはこれに類する和銃であって、 藩主守護の士中白虎隊の持っている銃にしても、 ヤーゲルという旧式な小銃であった。

こうした時代に、 この八重子が最新元込式の7連発の小銃を担いで、 意気揚々と城に乗り込んで来たということは、 驚異に値する事であった。


 八重子は弘化2年 (1845) 武田信玄の軍師だった山本勘助の子孫といわれる砲術指南の山本権八の3女として生まれた。

幼い時から男まさりの八重子は、 13歳の時には四斗俵を何回も持ち上げるほどの力自慢であったと言われる。


 八重子が自分の真価を鶴ケ城内に広く知らしめたのは、 容保公の前において、 砲弾の構造や作用の説明を行った事による。


 ある日容保公の居所に不発弾が飛来した時の事、 その砲弾は四斤砲と称して、 当時においては新式の利器であったのであるが、 八重子は君公の御前に出て、 これを分解し、 その中に盛られた数多の地紙型の鉄片を取り出して、 此の砲弾が着発すれば鉄片が四方八方に散乱して、 多大の害を及ぼすものである云々と、 極めて冷静に、 且つ、 流暢に説明して四座を驚かせた。


 8月23日朝、 鶴ケ城の正門−大手門へ進撃してきた新政府軍の先鋒隊は、 板垣退助の指揮する土佐兵であった。 彼等は天守閣を望んで一直線に押し寄せたが、 石垣の上の白壁塀の銃眼からの射撃によってバタバタと斃されてしまった。


 この時、 城内でもっともその威力を発揮したのは、 八重子のスペンサー銃と容保公が伝令の高木盛之輔に渡してあった元込銃であった。


 この手ごわい防戦で、 土佐の隊長連が次々と撃ち斃されてしまい、 事ここに至ってはさすがの板垣退助も後ろで観望していた薩摩兵に援助を乞うほかはなかった。

薩摩兵は白壁塀の銃眼を破砕するのが先決と考え、 大砲を最前線まで引っ張り出して来たが、 いよいよ砲撃を始めようとしたその時、 先刻からこの様子を銃眼から狙いをつけていた会津方の小銃が火を吹いて砲隊長の足を貫いた。 しかし、 薩摩兵はこれにひるまず、 今度は砲車を少し後退させて発砲しようとして準備にとりかかった。


 この頃、 城内では八重子の指揮によって城内取って置きの四斤砲が運び出されていたが、 白壁塀が高いため砲口がこれに遮られて、 発砲することができなかった。

そこで、 石塁上の土塀の下部の石を濠へ突き落とし、 砲身を容れる大穴をあけ、 砲身の囲りには土砂を詰めた鎧櫃を防壁にして、 進撃して来ようとする敵を瞰射し始めた。

不意を突かれた薩摩兵は、 暫く応戦はしたものの、 瞰射が激しく、 一挙に急襲して城内へ打ち入ることは到底できなかった。


 予想外に強い抵抗に戸惑った各藩は、 軍議の結果、 城を包囲したまま持久戦に持ち込むという作戦に変更した。


 こうして23日の鶴ケ城最大の危機は、 会津藩の婦人・老人・少年等の力戦苦闘によって救われたのであった。


 この時、 八重子が濠に突き落とした土塀の大石は、 今でも渇水期になると塁下の水面に露出するので、 これを見ることができると言う。


 なお、 24日以降になると、 国境守備の各戦線にあった会津藩の大部分が引き続き帰城して来たため、 それから約1ケ月の間、 婦女子幼少の者約600名を含めて、 5,200余名の籠城となった。


 その間八重子は昼は負傷者の看護をし、 夜は女としてはただ一人、 夜襲隊に加わり敵に切り込むというように、 正に男勝りの活躍をしたが、 唯一点八重子の女らしい所が、 後年語った 「……ただ、 こうして働いておりますうち一番心配でたまりませんでしたのは、 尾篭なお話しでございますが、 厠に入っている時でございました。

武家の婦人として、 一矢も報いず犬死するようなことがあっては、 主君に対しても、 家名に対しても誠に恥ずかしい訳ですから、 たとい流れ弾に当って死ぬまでも、 戦えるだけ戦って立派な最後を遂げたいとの一心でございました。

それですからもし、 厠に入っております時あの大砲でも破裂して、 このまま最後を遂げました時は、 婦人として最も恥ずべき醜態を曝さなければならぬからでございます」 という言葉で、 さすがの天下の勇婦も 「ここだけでは死にたくない」 と、 女性らしい感懐を思わず吐露したのであった。


 このような八重子達の奮闘によって、 官軍は最後まで鶴ケ城に攻め込むことができなかった。

だが、 食糧弾薬は底を衝き、 補給の途もなくなってしまった会津藩には自らの敗北を認めることで、 この戦に決着をつけるしか道はなかったのである。


 最後の一人まで、 城を枕に討死するといきまいていた武士たちの中には、 憤慨して切腹する者もいた。


 八重子もまた、 憤慨した一人だったが、 彼女の性格は、 この敗北にもおのれの力の不足を歎じるしかなかった。


 しかし、 鉄砲を捨てれば心優しい情の深い女性である。

失望と不安が、 彼女をとらえその思いが歌を詠じさせた。


 彼女は開城の時、 三ノ丸の銃弾で崩れ残った白壁に 「明日よりは何処の誰が眺むらんなれしお城に残す月影」 と刻み付けて城をあとにした。


 この後、 八重子は死んだと思っていた兄覚馬の消息を知り京都に出、 先に記した活躍をしたのであるが、 彼女のこの困難に立ち向かう強い気性は、 会津の地で育まれ京都の地で花開いたと言えるのかもしれない。


 戦後、 女と靴下が強くなったと言われるが、 江戸から明治期にかけて、 特に男尊女卑の社会において、 このような女丈夫が出現したことは驚嘆に値するだろう。

果たして八重子は強くなった現代女性をどのような気持ちで眺めているのだろうかとの思いを抱きながら一礼し、 墓をあとにした。

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