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わが師逸外老師    宮津地区 糸井 繁雄 

 老師は戦後古川大航老師の後をつがれて臨済宗妙心寺派管長を務められた梶浦逸外宗実老大師です。
 

私は昭和十六年地元の岩滝小学校を卒業し京都の学校へ進学、 尚志寮という学生の寮に世話になりました。


 尚志寮は臨済宗建長寺派選仏寺の中にあり、 当時の住職が逸外老師でした。


 老師はその後臨済専門学校 (現花園大学) の学長になられましたが、 まもなく老師が修行された岐阜県美濃加茂

市伊深町にある正眼ショウゲン寺の老師 (兄弟子) が急逝され、 その後任住職、 僧堂の師家に就任されました。


 正眼寺は妙心寺派随一の名刹であり、 花園上皇の師匠として伊深より上京された無相大師が、 上皇の離宮に妙心寺を創建されました。


 尚志寮には広い図書室があり、 テレビのない時代ですので隙な時間があればここで過ごし、 文学全集をはじめ多数の蔵書を読むことができました。


 四年生を終了して江田島へ入校しましたがこの四年間老師の暖かいご薫陶を頂きました。


 寺の小僧さんが出征して人出がなくなり私が時々お茶をたててお客様に差上げていましたが、 或時不始末から楽焼の名器がかけてしまいました。

老師は静かに申されました。 「若しご馳走にあづかり食後食器を洗って片付ければ、 人は感心するが万一しまう時割ってしまえば、 いらぬ事をしてくれたと思われる。 世の中はすべてそういうものである」 と。


 終戦後私の家は父・兄 (戦死) 姉が亡くなり、 母と私を頭に四男一女の家庭となって京都へ帰れず、 地元で就職しました。


 したがって老師には久しくおめにかかりませんでしたが、 妙心寺派管長に就かれましたので就任式にも出席し、 時々ご挨拶に伺いました。

管長を辞されて正眼寺へ帰られてからも年に一度は必ず参上いたしました。

又老師は戦後まもなく正眼寺短期大学を設立され学長として寺院の子弟や、 企業の新入社員の教育にも尽くされました。


 私も成人になっていましたので子供の頃のような教えはありませんでしたが、 「窮而変・変而通」 とか 「運」 とは足を運んで得る等有意義なお話しを聞かせて下さいました。

信者の方々は千宗室氏 (現学校法人正眼理事長) や参禅された巨人の川上氏等多士済々ですが老師は八十余才をもって永眠されました。


 私はいつも夫婦同伴にて毎年お墓参りをしていますが、 お弟子の耕目老師、 師がなくなられてからはそのお弟子宗休老師とお会いし逸外老師のご遺徳を偲んでおります。


 家内も年に一度は岐阜へ旅行できることを楽しみにしているようです。

「日本とは何か」 という本との出合い  −日本文明・アメリカ文明−    峰山地区 廣谷 倫成 

 息子は1年の浪人を経て関東の某大学に入学した。

予備校時代から髪を茶色に染めている。 これも民主主義による価値観の表現か、 私はこれに反抗し坊主にした。


 昭和20年、 敗戦後のアメリカの初期の対日方針は、 婦人の解放、 学校教育の自由主義化等をその基本的枠組みとした日本への民主主義の導入であり、 日本の文明的あるいは風土的適合性は無視されたものであった。

息子はこの学校教育の自由主義あるいは民主主義の下の2世代目であり、 言うならば申し子である。


 M・ウェーバーは、 宗教は人々の行為の奥にある価値観を形成し行為を制御、 あるいは促進し一定の社会的秩序を形成すると述べている。

この考えに従えば文明を形成する重要なファクターとして宗教がある。


 アメリカ文明は、 西ヨーロッパ文明の延長線上にあることはほぼ間違いない。


 その特徴は、 価値判断・行動基準にグレー・ゾーンがない。 一歩譲って頂いて表現すると、 イエスかノーの世界だと思う。

私の好きな 「んー」 の余地はなく現代の日本の若者の世界であり、 その行動基準、 あるいは価値判断によく似ている。

日本文明の礎となる宗教は仏教である。 教えは六道輪廻の世界からの脱出である。

よく言えば哲学的、 悪く言えば生きる知恵あるいは他人まかせ等、 例えにこと欠かない。 「んー」 の世界である。

その目指すところは 「和」 であると考えている。


 梅棹忠夫著[日本とは何か−日本文明の座標−]では次のように述べられている。 「(日本文明は西洋文明の) 模倣説でもなく、 転向説でもない。

日本文明は、 この地球上において、 西洋文明とは全く独立し、 独自のコースをたどって発展した別種の文明である。

西北ヨーロッパと日本とは、 地球上遠く離れて、 ユーラシア大陸の両端にあって全然無関係に平行進化を遂げてきたものである」 と述べ、 平行進化説の根拠として生態学的な位置の相似性を挙げている。

この考えに従うならば、 日本文明も確固たる地位を与えられている。


 ソビエト連邦が解体しイデオロギーという重石、 蓋が取れた今日、 歴史も人間にとり、 より本源的な宗教で変遷する。

このようななかで、 今、 私は父親の復権が衰退の途にある日本文明の復権につながり、 つき詰めると民主主義という仮面を覆ったアメリカ覇権主義に対する批判になると考え単純にも坊主にしたのである。


 知人の僧侶に尋ねてみた。 なぜ坊主にしているのか。 僧侶宣く 「解らん」。


 ともあれ、 「日本とは何か」 という書物は、 日本文明を考えさせるものであったことにはまちがいない。

=告示=
大同チャリティー
ゴルフコンペ
  開催日 平成14年3月25日(月)
  場 所 グランベール京都ゴルフ倶楽部
    −奮ってご参加下さい!−

両丹懇談会

  平成14年4月開催予定
  開催場所 福知山市
  両丹地区組合員の先生方の
     ご参加をお願いします。

 酒との出合い    舞鶴地区 増田  豊

 
 私が初めて酒と出合ったのは芋焼酎でした。


 20歳になった時は、 舞鶴市の或る会社の事務職員として勤務しておりましたが、 上司の肝入りで課員10名全員で成人祝いをしてくれることになりました。

当時は、 戦後で食糧難の時代でしたから場所はお寺の庫裏、 喰べる物は漬物と干物、 飲物は芋焼酎でした。

清酒は高嶺の花で芋焼酎が最高の酒のようでした。


 すすめられるままに、 若さにまかせ体力の限界もしらず相当の量を飲んだようです。

朝眼をさますと、 周りは誰もおらずゲロゲロの中で一人で寝ておりました。

勿論、 悪臭がプンプン、 洋服は汚れ頭はガンガンでした。

会社は遅刻、 上司、 先輩は私をみると、 皆大丈夫かと聞くだけで、 沈没した経緯は誰も話してくれなかったので、 今だにどのような飲み方をしたのかわかりません。


 以来、 焼酎とは臭いだけで気分が悪くなり絶縁しましたが、 反面、 アルコールには大変強くなったのではないかと思っております。


 時の移り替りとともに、 合成酒、 清酒、 ビール、 カクテル、 水割といろいろなアルコール酒と付合ってまいりましたが、 年齢を重ねるに従って、 少し量を過すと翌日にアルコールが残るようになりました。

そこで現在は紹興酒を愛飲しております。


 紹興酒は高粱を原料として醸造されているそうですが、 数年前中国へ観光旅行をした際紹興酒と出合いました。

紹興酒は少々飲んでも翌日に残らないよとすすめられたのがはじまりです。

紹興酒にも清酒と同じように沢山の種類があるようですが、 私の口とからだに合う紹興酒はなかなか少ないように思います。


 イスラム教の信徒は世界で12億人といわれておりますが、 日本では極めて少ないようです。

イスラム教では飲酒を禁じておりますので、 私はムスリム (モスレム) にはなれそうにもありません。


 日本に生まれてよかったナアー、 とつくづく思う昨今であります。

 

パソコンとの出合い    園部地区 川西 通夫 

 平成11年10月に園部町の 「研究開発用ギガビットネットワーク共同利用型研究開発施設に係る検証評価モニター」 に応募しました。

運よくモニターとなりましたが、 当初はパソコンで文書が書ける程度でしたから、 モニターを続けることが出来るか心配をしていました。

そうした折、 地元の商工会が初心者向けのパソコン講習会を開催しましたので、 その講習会を受講しました。

今ではメール交換、 インターネット等がある程度できるようになりました。


 ところで、 今回のキーワードは 「出合い」 ということですので、 これについて考えてみたいと思います。


  「出合い」 は色々な意味で使用されていて、 人との出合い、 自然 (山・川・海・風景等)、 書物、 科学等々との出合いを挙げることが出来るでしょう。


 そこで、 私はインターネットで 「出合い」 を検索してみますと、 最初に表示されたのが 「出合いサイト」 でした。

この項は巷を騒がしていますのでパスをして、 次に、 長崎に思案橋があるのならば、 何処かに出合い橋があるのではないだろうかと思い、 橋について検索をし、 続いて 「出合い橋」 を検索してみました。


 すると、 天城湯ケ島温泉郷を流れる男性的な 「本谷川」 と女性的な 「猫越川」 が落ち合う所に 「男橋」、 「女橋」 という出合い橋が架かっています。

他に白川郷荻町、 佐奈川と帯川の合流点、 伊予郡松前町、 博多天神中央公園の近くに夫々 「出合い橋」 があるとのことです。


 次に、 歴史的に有名な人物との出合いをした橋を調べてみました。

一つは、 矢作橋でこの橋は蜂須賀小六と日吉丸 (秀吉) との出合った橋。

他の一つは牛若丸と弁慶が京の五条の橋で運命的に出合いをした橋がありました。


 このように、 パソコンで橋を検索し、 片手で地図を拡げ表示された個所を確認していますと、 いつの間にか、 秋の一夜を地図旅行して楽しんでいました。


 

 丹後 (舞鶴市・宮津市・岩滝町・大江町・加悦町・野田川町・大宮町・弥栄町・峰山町・久美浜町・網野町・丹後町・伊根町) の観光協会は共同して『丹後七姫』 を定めました。


 ここでは丹後七姫の横顔を紹介したいと思います。     細川ガラシヤ  (ほそかわがらしや)

 細川ガラシヤは、 戦国武将明智光秀の娘で、 本名を玉と云います。


 織田信長の勧めで細川藤孝の嫡男忠興の元へ嫁ぎ、 幸せな日々を過ごしていましたが、 実父明智光秀が主君織田信長を討った (本能寺の変) 事で事態は一変、 玉は幽閉されてしまいます。


 幽閉先の弥栄町味方野で彼女はキリスト教に触れ、 後に信仰に救いを求めてガラシヤの洗礼名を授かります。


 関ケ原合戦前夜、 東軍に荷担する武将の正室を人質に取ろうとした西軍の軍勢が大坂の細川屋敷を急襲した折、 人質となることを恐れたガラシヤは屋敷に火を放ち、 老臣小笠原小斎の介錯によって果てました。

享年三十八歳の若さでした。

「散りぬべき
  時知りてこそ
     世の中の
 花も花なれ
   人も人なれ」

(細川ガラシヤ 辞世の句)

(つづく)

   

川柳 右京地区 櫻 井   武

年末と年始に分けるお賽銭
   五感みな総動員のテロ情報
   爆弾もパンも天から降ってくる
   自民・公・保の都合を聞けばまとまらず

新春講演会  新年祝賀会

日  時 

 平成14年1月15日(火)
    講演会 15時30分〜
    祝賀会 17時30分〜

場  所 

 京都ホテル

主  催 

 近畿税理士会京都府支部連合会

協  賛 

 京都税理士協同組合

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