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京都この百年 南座の歴史 −京の芝居小屋の変遷−
右京地区 中江 嘉和

 京都は四条鴨川のほとり、 桃山破風造りの威容を誇る南座は、 京の年中行事の一つとなった12月の吉例顔見世興業のほか、 5月、 11月にも歌舞伎を上演し、 日本の代表的な歌舞伎劇場に数えられている。 京都の人々にとっても、 鴨川のほとりを飾る無くてはならない風景を醸し出しているといえよう。


 南座は、 平成の世に歌舞伎が上演されている劇場の中でも最も古く、 その歴史は歌舞伎の誕生と密接な関係を有している。 歌舞伎の誕生は、 徳川家康が江戸に幕府を開く慶長八年 (1603年) の春、 京の都に出雲の阿国があらわれ 『かぶき踊り』 を踊ったことに始まる。 阿国は、 男のように髪を高く結い上げ、 または断髪姿で男装して、 人々の前に現れた。 南蛮風の派手な胴着や、 覆面、 大脇差し、 金の瓢箪など姿かたちは異風であり、 恋の小唄を歌いながら踊り戯れる阿国の姿は、 人々の心を魅了したのである。

かぶき踊りの 『かぶく』 は 『傾く』 から派生し変化したものであり、 一種尋常ではないもの、 現実的ではないものを意味している。 戦国時代の乱世の 『憂き世』 から解放された当時の人々にとって、 時代は享楽的な 『浮世』 へ変化していた。 阿国の、 女性のか細い声で歌いながら踊る 『かぶき踊り』 は、 それまでの猿楽能における男達の地を這うような声姿と異なり、 人間本来の欲望を謳歌する一時の 『浮世』 と映ったのである。 歌舞伎の歴史は、 その後、 『若衆歌舞伎』、 『野郎歌舞伎』 へと変遷を経て現在に至るが、 話を芝居小屋にもどす。 『芝居』 という言葉の語源は、 昔の興業場では屋根は舞台の上だけであり、 観客は青天井、 地面に敷物を敷いて見物したこと、 文字通り芝の上に居て舞台を観ることから始まって、 当初は見物席をさしており、 これから進展して劇場の意味になり、 さらには演劇全体をさすようになったものである。 『劇場』 なる語は、 明治になって外来語を訳したものである。 芝居小屋の観客席の上に屋根が設けられるようになるのは、 享保年間 (1716〜1736年) になってからである。 南座も他の芝居小屋と同じく、 古くは、 興業権の所有者である名代の名で呼ばれていたが、 幕末には 『南側の芝居』 と呼ばれ、 明治半ば頃より 『南座』 の名称で呼ばれるようになった。


 江戸幕府は、 芝居小屋を都市の一角に囲い込む政策をとり、 芝居の常時興業についても奉行所の免許を得た者でなければ許されなかった。 京における芝居小屋の誕生は、 近世初頭の元げん和な年間 (1615〜1624年) に村山又兵衛、 都万太夫、 亀屋粂之丞ら7人が興業を許されたのが始まりである。 江戸の昔には、 四条通りの南側に3座、 北側に2座、 大和大路に2座の7座が軒を並べ賑わいを見せていたが、 幕末には南側、 北側各1座となり、 明治26年 (1893年) に現在の四条川端の鴨東駐車場の場所にあった北側の芝居 (北座) が廃止され、 南座のみが現代まで京の芝居小屋の歴史を綿々と引き継いでいるのである。


 先にのべた官許による芝居小屋は大芝居と呼ばれ、 小屋に櫓を掲げることが決まりであった。 櫓は、 正面に座紋を染め抜いた幕をはりめぐらした方形の木組で、 芝居小屋入り口の屋根の上にしつらえたものである。 櫓には毛槍を並べ、 梵天を立て、 その中に櫓太鼓を置いて開場閉場の際に打鳴らされていた。 櫓を設けることができたのは官許の芝居小屋のみであり、 この櫓は、 その権威を示すシンボルでもあった。 現在の南座正面に掲げられている櫓には、 経営者となった松竹の紋の入った幕がはりめぐらされているが、 この櫓は南座が大芝居であったことの面影を残している。


 この大芝居に対して、 櫓を許されなかった2級以下の小屋は小芝居と呼ばれ、 厳格な区別を余儀なくされた。 小芝居は、 あくまでも小屋掛けで、 見物席の上には屋根を許されず、 廻り舞台もなく、 引幕も禁止され、 緞帳によって興業していた。 小芝居に対しては 『緞帳芝居』 という蔑称さえ生まれている。 しかしながら、 小芝居は、 歌舞伎が庶民のすみずみに浸透するのに大きな役割を果たしてきた。 南座のような大芝居は、 入場料がかなり高額であったり、 芝居茶屋を通してでなければ桟敷席のような席には入場できなかったこと等に対し、 小芝居にはこれらの敷居の高さがなかったためである。 江戸では芝明神などの神社の境内に建てられたため 『宮地芝居』、 大阪では道頓堀の浜側に建てられたため 『浜芝居』 と呼ばれたものである。 京都では、 四条道場、 六角堂、 因いな幡ば薬やく師し、 錦天神などにあったものが知られている。


 南座といえば、 顔見世である。 顔見世の制度の由来は割愛するが、 顔見世は当代名優の当り狂言を上演する興業であり、 民衆を引き付けて止まなかった。 南座に関する資料として、 本居宣長の在京日記がある。 本居宣長は宝暦2年 (1752年) から5年間、 医学を修めるため、 伊勢松坂から京都へ遊学していた。 本居宣長が下宿していたのは、 四条室町の西南、 南座へも近く、 宣長は芝居見物にも出かけている。 この在京日記の宝暦6年、 顔見世興業の初日である11月1日の条には次のようにしたためられている。


 けふより南がわ芝居、 かほみせ始まり侍る。 いとはやくみな人ゆくめり。 女児などは夜もいねずにこしらへて、 夜のうちより出侍るめる。 すべて此顔みせといふ物は、 一陽来復の心地して、 見にゆかねどいといさましくよきものなり。 芝居のほとりは饅頭のせいろう、 20、30つみかさね、 或は炭数10俵つみあげて、 進上某様など書て、 所せまくならべをきたるいとにぎわし。

 当時の賑わいぶりが目にうかぶようである。


 時代は流れ、 大芝居で上演される顔見世は、 観劇の大衆化により発展していった小芝居に押され衰微していくが、 由緒と古式を重んじる古都の特徴からか、 京都の芝居小屋は可能な限り顔見世興行を実施していった。 天保7年 (1836年) の大飢饉の年でさえ、 京四条の南側の芝居、 つまり南座のみ顔見世興行を敢行し、 大入りを記録している。 この京都人の意地が、 歌舞伎ファンの 『顔見世は京都』 という考え方を定着させていったのである。


 時は下って、 明治の代となり文明開化の時代となる。 明治7年 (1874年)、 四条大橋が木造から鉄橋となった。 南座では、 これをさかのぼること明治五年 (1872年) 11月、 翻訳劇がとりあげられた。 なお、 都をどりが始まったのも同年である。 東京の地で翻訳劇が上演されるのは、 その後である。 いわゆる散ざん切ぎり物ものの歴史の扉も、 また南座が最初に開けたのである。 この点も、 時代の変化を素早く受け入れる京都人のしたたかさの証かも知れない。
 天保の飢饉の年でさえ顔見世興行を行った南座が、 明治17年 (1884年) から暫く歌舞伎興業を行わなかったことがある。 理由は、 不景気、 改築、 そして新興の盛り場である新京極の出現である。 近代に入って再開発された新京極には、 料理屋、 見世物小屋などが林立しており、 安くて手軽な歓楽街として発展していった。 南座は再び歌舞伎の興業を行っていくが、 演劇改良運動と興業近代化の波はいよいよ迫って来ていた。 この波を乗り越え上方劇界を支えていったのは、 白井松次郎、 大谷竹次郎兄弟の松竹合名社と初代中村雁治郎の提携である。 そして、 芝居小屋の近代化の中で、 南座は明治39年 (1906年) 松竹の経営に委ねられるに至ったのである。

 大正に入り、 南座は改築を行っている。 大正2年 (1913年)12月、 この改築新装の柿落しの顔見世興行には、 東京から二代目市川段四郎、 中村明石が出演、 5年 (1916年) には、 七代目松本幸四郎が出演し、 以後、 南座の顔見世は東西合同が慣例化していくこととなった。 師走を告げる風物詩に、 南座顔見世の“招きあげ”がある。 東西合同の南座顔見世では、 右手側が関西出身の役者、 左手が東京からの出演役者という形となっている。


 昭和4年 (1929年) 落成した南座は、 以前と同じく破風造りで櫓を備えた外観ではあったが、 それまでの木造とは異なり、 鉄筋コンクリート建築であり、 また椅子席を主体としたものであった。 昭和の世は戦争の時代であり、 多くの劇場が傷を負ったが、 京都はほとんど空襲による被害を受けなかったため、 南座は焼けずに残っていた。 南座では、 8月15日の終戦の翌月9月には、 早速文楽が上演され、 人々の心を慰めたのである。


 平成3年 (1991年) には、 装いも新たに 『平成の南座』 が誕生した。 この年の顔見世は2ケ月にわたった興業となり、 新装御披露目と中村扇雀改め三代目中村雁治郎襲名披露を兼ねて、 大いに盛り上がった。 また、 南座の建物は、 平成9年 (1997年) 近代建築を守るための国の 『登録有形文化財』 の指定を受けるに至っている。


 その土地独自の事物の歴史を振り返ると、 その土地に住む人々の生活、 気質までもが窺える。 南座の歴史を振り返っても同様である。 そこには、 京都人の時代を先取りする気質、 伝統と古風を重んじる気風、 他の土地に生活する人々には理解しにくいであろう“したたかさ”が垣間見られるのである。


  (参考文献)
  淡交社 『歌舞伎入門』
  演劇出版社 『平成歌舞伎の劇場』

トリニテーシステム特別講演会


資産税に関する実務研修会
日時 平成12年11月8日(水)
場所 京都全日空ホテル

チャリティーゴルフコンペ 開催

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平成12年10月16日(月)
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ゴルフコンペ・両丹大会
平成12年9月26日(火)
宮津カントリー倶楽部


夢がかなった!!
カーネギーホールで歌えるなんて

上京地区 辻 望

 2000年5月31日午後8時、 ニューヨーク・カーネギーホール。
  「今、 私たち平和のために歌う第九コンサート」 の合唱に参加し、 由緒あるカーネギーホールで思い切り歌っ
て来ました。
 日本からの参加者153人 (うち車椅子の方22人) とサポーター76人の合計229人 (うち障害者61人) と盲導犬1頭がニューヨークをおとずれました。 これに国連合唱団とNY市民合唱団7団体が加わり、402人のベートーベンの第九“歓喜の歌”を力いっぱい歌い、 二十一世紀の平和と人々の連帯を呼びかけました。 歌い終わったとき満場の聴衆からは、 10分以上も Standing Ovation 鳴りやまぬ喝采が続きまさに"Alle Menschen werder Brueder"“全ての人々は兄弟になる”と言う思いでした。
 夢じゃーなかった!! この年になってカーネギーホールで歌えるなんて……
 昨年末、 ニューヨークの友人に X'mas カードを送った際にニューヨーク行きの事を書いたら、 友人から 「滞在中のことはお任せ下さい」 と嬉しい返事を頂いた。
 今度のニューヨーク行きについては、 カーネギーホールで 「第九」 を歌うと言う大目的のほか、 古い友人に会えると言う第2の目的もありました。
 1966年 (昭和41年) その友人は世界一周大学で、 日本では拙宅に約1カ月ホームステイして日夜一緒に過ごした人です。 名前は 『Mr.C.S.Jr』 (今はJr ではない)
 あれから34年。 一目会って、 食事でも出来たら良いと思っていたのに滞在中招待されるなんて思いもよりませんでした。
 mail の交信で 「ホテルより快適です」 「リハーサルと本番はホテルに戻る」 「ケネディ空港へ運転手が迎えに行く」 etc 打ち合わせをしました。
 通訳として娘同伴、 中2の孫娘と同じ飛行機・ホテルを取り同伴する。


5月27日 (土)
 伊丹空港集合→成田空港へ。 成田ビューホテル泊
 ホテルで東京グループとの合同練習とレセプション。


5月28日 (日)
 成田空港→全日空10便でニューヨークへ13時間の飛行。


5月28日 (日)
 時差13時間の関係で同日着。 ニューヨークの友人の運転手が出迎えてくれていたのでツアーグループから離れてSousthampton にある彼の別荘へ行く。 とにかくすごく広い大きな別荘でビックリした。 敷地は植物園くらい、 テニスコートは勿論、 子供の遊園地・25mのビーチハウス付きプール・室内は25m温水プール・3階までのロッククライミング設備・バスケット練習場・バーベル室etc。
 ペットもロバ6頭
・真っ黒な犬2匹・ウサギ・小ガモ・オウム等で敷地内には庭園師・大工・調教師・家政婦らのプライベートハウスがある。
 夕食は映画で見るような豪華なダイニングでウェートレスが接待する。
 泊めて貰ったゲストハウスがまた広くて豪華、 寝室でも50畳くらい。


5月29日 (月)
 午前中、 別荘地区の商店街見物へ。 夕方、 ニューヨークの自宅へ。
 自宅はアッパーイースト71丁目で高級住宅地区。 これがまた豪華、 15階建てのビルだがホテル以上の豪華な住まいで、 プライベートルームは数えきれない。 ゲストルームも数え切れない。 ホテルよりズーっと豪華快適だ。
 夜の食事はリムジンで国際貿易センタービル107階のレストランの窓際の席で。 さすがニューヨーク一番の高いビルで、 下を見ると丁度飛行機に乗っているよう。


5月30日 (火)
 運転手付きの車で私ども夫婦・娘・孫の4人がニューヨーク観光。 セントラルパーク・ロックフェラーセンター・リンカーンセンター・ジュリアードスクール・大寺院・コロンビア大学・国連本部・SOHO・エンパイヤーステートビルなど。 夕方、 ヒルトンホテルへ入りツアーグループと合流、 ニューヨークの合唱団と合同練習とレセプション。


5月31日 (水)
 いよいよ本番の日、 カーネギーホールでのリハーサルも終え午後8時本番。 広い豪華なホール、2,400席は満席、 ニューヨークシンフォニー・アンサンブルの演奏でベートーベン交響曲第九番が始まる。 第4楽章に入った。 『カーネギーに響け・歓喜の歌!・すべての人々は兄弟となる。 歓びよ神々しい輝きよ!』。 力一杯歌った。 歌っている間は無我夢中。 歌い終わってどっと感激感動がこみ上げてきた。 楽屋へ帰ってから障害者と家族ら皆は声を上げて泣いた。


6月1日 (木)
 自由時間。 友人のチャックさんがリムジンで迎えに来た。 今日は自由の女神などを観光船でクルーズ。 船会社の社長が彼の友人で沢山の人が並んでいるのにフリーパスで乗船。 船内売店の飲食・土産物凡て無料のVIP待遇。 観光船で自由の女神を見てマンハッタン島を一周、 船からニューヨークを観光した。 夕食は滞在中お世話になったお礼として 「稲ぎく」 と言う日本料理店に招待した。 夕食後、 彼の招待でニューヨークバレー 「ロミオとジュリエット」 を鑑賞。


6月2日 (金)
 朝から帰り支度。 ケネディ空港より全日空09便に乗る。
ニューヨークよ、 さようなら…

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