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飛騨の小京都高山と 雄大な北アルプスを望む新穂高温泉の旅

飛騨高山にて

東山地区 早川 嘉美

「晴れてよし曇りてよし富士の山  元の姿は変らざりけり」 でなければいけないのでしょうが、 100名を超える旅行ともなれば、 お世話いただく執行部の心労は大変なようです。 今回も雨の場合に備えて、 陰のプランニングもあったとのこと。 本当にありがたいですが、 これからは、 「降ってよし晴れてなおよし 京税協 の旅 集う笑顔は変わらざりけり」 で、 文句いいっこなしでいきましょう。
 さて、 大同生命さんの心配りの差入れとスタッフ総勢に見送られて、 一路、 小京都高山と新穂高へGO。
 まず最初は高山陣屋前で自由行動。 私はここを少し早めに切りあげ、 「京都より旧都漂う小京都 店の看板 にも いにしえの香り」 を味わってひとり散策することにした。
 すると、 ××支部の酔っぱらいグループが前からやってきて 「どこまで行くねん。 もう時間ないぞ。 引きかえさなあかん」。 これをやりすごしてUターンしてみると、 当の本人、 ふらりふらりと店に入って行くではないか。
「ちどり足もう時間だぞと 言う彼に 粋なお店の匂いの誘惑」  次いで向かったのが、 飛騨高山まつりの村です。
「コンチキと聞こえてきそうなまつり村 みやびの匠 粋をこらして」
 豪華美麗なのですが、 金工芸の扱いが、 バブルを思い出してしまいそう。 100年も経てば、 また違った味になっていくのでしょうか。
 宴会は恒例となった支部対抗ゲームで盛りあがる。 ダーツ、 風船入れ、 みんな童心に返って楽しみました。
 あとは三々五々、 思い思いに夜が更けるのを忘れてさわいでいたことでしょう。
 私は娯楽室でしばし楽しんだあと、 露天風呂に一日を休めました。
「湯けむりに 星を求めて 明日をみる 飛騨の連峰 快晴となれ」
 そして翌日。 今回の目玉、 飛騨連峰の天候や如何に!

宴会模様

右京地区 平野 晃

 宿泊した 「穂高荘山月」 は欅の大木が組み込まれた太い梁の吹き抜けの玄関、 檜造りの客室が自慢の新築された旅館だった。 その欅は樹齢500年ともいわれている。
 宴会は奥飛騨の大自然のぬくもりの中、 場所は 「月光の間」。 京都の全域から100名の先生方が参加されての盛大なものであった。
 田中専務理事の司会で始まり、 上田理事長の挨拶、 田島支部連会長の挨拶に続き、 廣瀬來三先生の乾杯の音頭により大宴会は始まった。
 和太鼓の競演、 舞、 飛騨の民謡と続く。
 出発の時に渡されたクイズの発表があり、 満点の正解者が4人もいた。 えらい!!
 メインは地域対抗ゲーム。 ほろ酔い機嫌のなかで、 若さと老体が混じり、 目標が思うように定まらずに、 四苦八苦のなか、 上京支部が優勝、 下京・東山連合が続く。 当たり馬券を射止めた人、 11人。
チャリティへの寄付金が55000円に達した。
 宴たけなわのなか、 北田地区連絡担当副理事長の中締めの挨拶。 楽しかった日の奥飛騨の夜は更けてゆき、 明日への期待を込めて眠りに入った。

 

いざ新穂高へ

宮津地区 山井 嘉文

 旅行2日目、 前日から天候も回復し、 朝から雲一つない好天に恵まれ、 旅館から見える山々も前々日に降った新雪が眩しく輝いており、 大いに期待して新穂高ロープウェイに向いました。
 しかし、 我々一行を待ち受けていたものは、 ロープウェイ乗車のための長い行列でした。 後から聞けば、 シーズン中はもっと長い行列ができるとのことですが、 1時間近くも駅内で待つことになりました。
 最近はよく泊まり込んでの行列ができたりと世間ではよく見かけますが、 そういうことに縁のない私には、 小学生の頃に切手収集が流行し、 記念切手の発売日には朝早くから近くの郵便局に並びに行ったことを思い出しました。 朝食の仕度が整い父を送り出した母が代わりに来てくれ、 姉と食事を済ませて学校へ行くことも度々ありました。
 やっとのことでロープウェイに乗り、 山頂に着いた時には帰りのロープウェイの時間が迫っており、 慌ただしく展望所、 また雪に覆われた千石園地へと……。
 展望所からのアルプスの山々は、 好天にも恵まれ、 絶景の一言。 素晴らしい写真が載っていることを期待しております。
 千石園地はまだ1メートル程の積雪があり、 立入禁止箇所も多く、 散策ができる状態ではないと思われましたが、 中には雪遊びに興じておられる先生方もいらっしゃいました。
 2日前に積った雪とは思えない軽くサラサラの雪で丹後の真冬でもこんな軽い雪は降りません。 なるほど遠くまで、 高くまでやって来たものだと実感 (?) しました。

一 泊 旅 行写 真コンテスト

<実施要領>
 @当日お渡ししたインスタントカメラで撮影された作品

 Aお一人様2点まで(サービスサイズの大きさ)

 B裏面に氏名・地区を明記

<締 切>
 平成12年6月16日

<表 彰>
 通常総会 (平成12年7月27 日) 懇親会の席で表彰




 俳 句
     伏見地区 中嶋 康江

 残雪の上に雪舞ひ飛騨の里
  高山の陣屋の櫻まだかたく
   残雪のまだ白じろと新穂高
    遅櫻野麦峠を振りかへる

京都この100年 **雅の伝統** 小倉百人一首 

 伏見地区 中西作 治

 幼時、 かるたという遊びを経験した事のない人は無いであろう。
 現在、 かるたと呼ばれている花札、 百人一首・いろはかるたの成立には、 大きく二つの流れがあるという。
 1つは天文12年、 種子島へ漂着したポルトガル船によって鉄砲と共に伝わり、 ポルトガル語のCARTAがそのまま日本語となり、 現在の花札へとつながるもの。
 別の1つは、 日本古来の 『貝おおい』 が外来のカルタと融合して歌かるた (百人一首・いろはかるた) の誕生となる。
 百人一首というと、 一般的には小倉百人一首を思い浮かべるが、 これは、 かるた取りのために選ばれたものではない。
 鎌倉時代、 新古今和歌集の選者であった藤原定家が勅撰集に載せられた古今の歌人百人から各一首ずつ採るという形で撰した、 私的な秀歌撰これが小倉百人一首である。 約800年前、 定家は嵯峨野、 小倉山麓の小倉山荘でこの撰をしたという。 知人の山荘の襖に貼る色紙に書いたとも伝えられ、 この色紙は小倉山荘色紙、 小倉色紙と人々に知られ、 和歌の教育用にも使われた。
 現在、 嵯峨野に厭離庵 と呼ばれる尼寺がひっそり日々の勤行につとめているが、 このあたり、 定家の小倉山荘跡とも言われている。

 トンチンカンな笑い話をひとつ――
 客 「お宅様などは旧家でいらっしゃるので、 さぞかし立派な家宝をおもちでしょうね」
 主 「いえいえ、 戦争でみんな燃えてしまいました」
 客 「えっ、 戦災にお会いですか」 キョトン。
 主 「はい、 応仁の乱の時ですが…」

 平安遷都から1200年、 応仁の乱を生き延びた旧家が何家もある。 公家、 神官、 商家などなど。 「桓武天皇の平安遷都にお供してきて、 代々御所の供御の御用を勤めてまいりました」 などという菓匠さえある。
 その中にあって、 100年前などと言っても、 下手をすると 「ついこのあいだ」 で片付けられる年月ではある。 まして100歳以上の老人が府下に270人以上とか。 現に京都府では100年以上つづく老舗を表彰する制度をつくっているが現在1500社以上の老舗がその栄に輝いているという。
 しかし、 この100年はわが国が大変革をとげた100年でもある。 千数百年にわたる手仕事の歴史が明治の産業革命を経て、 機械文明にとってかわった、 めまぐるしい変動の100年でもあった。
 ここに1軒のかるた屋がある。 大石天狗堂。
寛政12年 (1800)、 京都五条が創業の地。 花かるた (花札) 大流行の中、 天保の改革による禁制により、 表の家業として米屋を営みながら、 ひそかに裏で花かるたを商いつづけたという反骨の歴史もある。 今年で創業200年、 まさに伝統産業の老舗である。
 ところで京五条のあたり、 このあたりは当時、 雑貨問屋が多く集まる地域であったという。 かるた屋も多かったらしい。 テレビゲームで世界的企業として知られる任天堂もこのあたりから今につづいている。
 その頃のかるたは、 縁を繕う縁屋 (へりや)、 裁断する裁屋 (たちや) など細かく、 家内工業的に分業化され、 その要としての問屋がたばねていた。
 もちろん、 かるたに画かれる絵も字も手書きである。 この仕事、 自分の家の座敷で、 あまり人目につかず、 小綺麗で教養が必要ということで外聞もよい。 京都の江戸時代、 ピッタリの労働力が豊富に供給される条件があった。 生活苦の公家衆である。 もちろん専門の画工たちもいた。
 ところで花かるた (花札) のほかに、 京都では歌かるたも多く作られた。 小倉百人一首、 伊勢物語、 源氏物語などが代表的な歌かるたになったが、 これは公家、 武家などの姫君や豪商の娘たちが遊びながら教養を身に付け、 その為、 豪華光琳かるたな歌かるたが嫁入り道具としても重視されたので、 数多く作られたらしい。 らしい――というのは、 当時、 手すき和紙で厚紙の技術も完全でなく当然ながら消耗が激しく、 現存するものが少ないという事情から詳細が不明なのである。
 ところが、 今から20年程前、 京都のとある旧家の蔵から見事な歌かるたが発見された。 光琳かるたである。 大和絵風の大らかな画風と、 取り札にも光琳様の図柄が画かれ、 華麗な作品である。
 大石天狗堂はこの光琳かるたをオフセット印刷で現代によみがえらせた。 1枚1枚手貼りの逸品である。 実を言うと現代に生きる私たちの教養では、 これでかるた取りをする事は至難である。 字が読めない――総手書きの変体仮名字で書体もまちまちというのは如何ともなしがたいのだ。
 さて時代は明治、 歌かるたが庶民のあいだでも大流行したという。 道を走っていて小倉百人一首を詠む声が聞こえると、 見知らぬ家に飛び込みで入り込み、 かるた取りに興じる人まであったという。
 丁度この頃、 黒岩涙香 (1862〜1920) という人がいた。 萬朝報 (よろずちょうほう) という日刊新聞を出していた新聞人である。 と同時に文筆家としての涙香は、 探偵小説、 冒険小説など主にヨーロッパの小説の翻訳でも知られている。 噫 (ああ) 無情、 巌窟王などは彼によって日本に紹介された。 涙香の多才ぶりは更に発揮される。 大流行の小倉百人一首かるた取り、 大々的なかるた競技会が開けたら――ところが問題がある。 変体仮名、 書体もまちまち、 何しろ手書きである。 これでは公平なかるた競技会は開催できないと考えた涙香、 総平仮名の活版印刷の百人一首を製作してしまう。 何しろ自分の新聞社に、 自分の印刷部がある。 ここで刷り上げて、 あとは京都に大石天狗堂がある。 かくして標準かるたは完成した。 明治36年 (1903) の事。 翌明治37年 (1904)、 第1回全国かるた会が開催された。 かるたの統一、 文化史的に見れば画期的な出来事であった。
 明治37年2月11日の萬朝報に、 このかるた会の広告記事が掲載されている。
 会費は30銭 (晩餐弁当付き) 同好の男女、 萬朝報遊戯部考案、 新式、 最も公平なる歌留多、 秀技者に金牌その他の商品あり、 遅く来会されれば盛会につき入場制限も有、
 翌々日の萬朝報には結果記事がある。 天狗
  参加者約100名、 1等……
まさに盛会であった。
 活版印刷という明治の新技術があればこその快挙とも言える。
 このかるた会の流れは、 変遷を経て、 現在、 近江神宮の名人戦、 クイン戦となり、 新春模様としてテレビ、 新聞をもにぎわしている。 100年前の一民間人、 涙香の熱い思いは今に生きつづけているのである。
 はっきりした年月日、 ましてや、 掲載された雑誌の名も今となっては確かめようもない20年以上も前の古い話になるが、 作家の五木寛之が京都について語っているのを読んで興味を覚えた記憶がある。

 京都という町に魅かれて居を移した。 おそろしい町だった。 歴史が住人の一人一人の骨までやきついていて、 だからこそ他所者 (よそもの) を容易に受け入れない。 にこやかに、 付き合ってくれるので、 京都を、 あるいは京都人を理解したなと思うと、 驚いたことに次の扉が閉ざされたまま、 あらわれる。 やっとの思いで、 その扉を開けると又、 次の部室に扉がある。 奥深い。 侵略者を何人も迎え、 去らしめてきた生活の知恵なのだろう。
 確定申告に税務署へ行って書類の提出をした時、 担当職員が生半可じゃない文学論をしてくるんですよ。 それも小倉百人一首、 含蓄の深さにも驚いたが、 税務署員と小倉百人一首という取り合わせには尚びっくりした。 トランプなら判りますよ。 トランプ・花札の税金がありますからね。 (注・トランプ類税は平成元年廃止された)手刷り花札

 不確かながら、 このような趣旨だったと思う。 人気作家の名と顔は国中に知られていたはずである。 その人相手に、 とうとうと文学を語り、 感服させた素人文学者の税務署員は、 初めてだったのだろう。
 文化の伝統、 どうという形はとらなくても、 私たち京都人の気質に侵みこんだ王都人の意識、 これが、 何百年も同一業種の家業を守り通した老舗を支えてきた誇りにも感じられる。
 百年前、 涙香と共に標準かるたを作り、 1つの時代のうねりの当事者ともなった大石天狗堂は、 8代目当主のもといまも京都伏見区両替町にその命脈をつないで、 かるたを商っている。


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