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京都この100年
西暦1900年1月25日発行新聞

西暦2000年を迎え新しい百年に向けて世界も京都も旅立とうとしていますが、 今から百年前、 世界で京都で世相がどのようであったかを垣間見ることにしました。
 試みに 「京税協ニュース」 発行日である今日2000年1月25日の百年前にあたる1900年1月25日の京都日出新聞 (現京都新聞) 記事より、 経済及び社会面を一部抜粋して掲載しました。
 百年前に思いを馳せながら一読して下さい。

●大隈伯の經濟談

 東京銀行倶樂部員は再昨日午後坂本町の同倶樂部に於て晩餐會を催したり來會者は來賓大隈伯を首め園田孝吉、 豊川良平、 池田謙三、 波多野承五郎、 佐々木勇之助、 馬越恭平、 大野清敬、 木村清四郎、 土岐□諸子等百餘名にて一同着席するや大隈伯は幹事の紹介にて演壇に進み一時間餘に渉る談話を試み園田孝吉氏は會員を代表して伯に謝辭を呈し夫より會食に移り散會せるは九時頃なりき當夜大隈伯談話の要領は左(下)の如し

本邦銀行の起原は實に明治政府が國立銀行を創設せるの時にありと雖も深く其由來を尋ぬれば維新前に於ける封建時代に其萌芽を發し漸く進歩せるものなりと稱せざるを得ず徃昔封建時代に於ける日本の社會は國内を小分して三百餘の諸候各地に散地し政治上經濟上の權力を併せて悉く之を掌握し租税は物品を以て上納せしめたるものを更に大阪其他に於て之れが販賣を行ひ其金銭を以て各種の經費に宛てたるの有様なりし故當時三百の諸候なるものは恰も日本に於ける三百の銀行同様金融の上に大關係を有したるものなるに維新の革命は夫等の制度を全然破壞して其痕跡を止めざるに至らしめたるの結果當時の日本社會は殆んど三百餘の金融機關が一時に恐慌の為倒産したるが如く經濟上非常の打撃を蒙り不便不備實に言ふに堪へざるものありしなり是に於てか政府は始めて金融機關を新設區劃し遂に國内に百有餘の國立銀行を創立せしむるに至れり而して爾後此銀行が年と供に發達し大に農工商の發達を助けたる為既徃二十年間本邦經濟上の進歩は實に非常なるものあり即ち既徃二十年間に本邦の經濟界が如何なる進歩發達を為したるやと云ふに外國貿易の如き將た金融の如き殆ど四倍以上の進歩にして其速なる事世界經濟上の進歩に比するも毫も劣る所を見ず即ち英國に二十年前六十億圓に上りし外國貿易が今日僅かに七十億圓内外に過ぎずして漸く其間の進歩は一割五分なり其他佛、 獨に於ても同様一割乃至二、 三割の進歩にして決して日本の如き長足の進歩を為せるものなし


以上は維新後に於ける日本經濟界發達の一例を示したるものに過ぎざるが余は進んで外國貿易と金融の關係に就いて一言せんと欲す外國貿易には簿記上に於けると同じく常に貸借の關係ありて富國は貸方にして貧國は始終借方なるを免れず之を國別にする時は英、 佛、 獨、 和、 白の如きは貸方に屬し露、 墺、 伊、 西、 土其他各國植民地の如きは全く借方に屬すると共に貸方は連年輸入超過と為り借方は又連年輸出超過の傾あるに似たり其故如何となれば富國の資金は貧國に放下され居るが故に貧國に於ては若熱心に自國の輸出を奬勵して以て盛に之を富國輸出するにあらざれば其負債に對しては現金を以て元利の償還を為さざるべからざるの義務あるが故に自ら節約して此義務を盡すの念に富むものなり若し不幸にして物品を以て元利償還の途無く絶へず輸入超過の事あらんか其國の經濟は到底維持するに由なき故自然の結果として保護政策を施行しても之を防禦するに至る蓋し其例を求むれば古來決して少からず面と我日本は如何と見るに少く借方に屬し今現に外債等の負擔あるが故に依然借方に相違無しと雖も維新以來に於ける日本の輸入税を見る時は無税有税平均五分にして今度の改正に依るも僅か平均一割に過ぎざれば決して保護の力ありと稱するを得ずされば日本は開港以來自由主義を以て世界の商業界に立ち遂に世界の競争に打勝つ事を得たるのみか今尚打勝ちつゝありと稱して可なり而して其の打勝ちし所以は日本國民勤儉儲蓄の結果と見るも不可無きなり戦争前に於ける鐵道、 電信、 I船、 紡績、 鑛山、 製造業の發達は是れ即ち貯蓄の實を顯せるものにして戰後此經濟界が非常に膨張したるものも結局日本が甞て貯蓄したる勢力の結果に相違無きなり即ち換言すれば日本は獨力を以て今日の勢を來したりと稱せざるを得ず故に今日或は日本を以て貧國なりとか日本は資本の不足なる國ゆゑ外資を輸入せよとか或は農民の漸次贅澤に赴けるが故輸入年々超過して邦家の前途憂ふべきなど諸種の議論を為せる相憂者ありと雖も靜かに考ふる時は殆ど誤謬に陥れるものと稱して可なり

凡金融を伸縮するの原因は戰争、 飢餓、 政治上等の數種に存りと雖も其來るや實に何人と雖も豫測する能はず故に歐洲各國に於ては數次經濟上の恐慌に遭遇したりと雖も未だ甞て之を避くるの方法を講じたるものあるを聞かず故に之を避けんとせば唯當業者各自が注意を加へて警戒を怠らざるの一點あるのみ、 夫れ一方に於ては金融伸縮を常に規則正しく一定する能はざると共に利子の如きも規則正しく定むること能はざる等極めて不正確の事柄なるに加えて他方には又豫想外の天災若は政治上の意味より第二の危險を有するが故に銀行家の事業は最困難にして當業者は又其丈最も技倆ありて且機敏の能力を有するは實に大切なり次に銀行家は近來營業競争の結果經験能力追々發達して非常の進歩を見るに至れりと雖も近年の物價騰貴は輸入の超過と為り日本銀行正貨準備の流出と為れるが為世間には大に憂ふる人もあり勿論憂ふべき事柄には相違なきも此等は自然の結果巳むを得ざる事故此際人為的の處置を施すは決して策の得たるものにあらず凡そ物は打つ力と其反對とは常に正比例を顯すもの故今度の物價騰貴等より來る反動は必ず大にして一時大に經濟界を困難ならしむる事無しと云ふ可らず斯かる場合に銀行家等が無理に其困難を避けんとし人為的の方法を用ふる等の事あるに於ては其□却て大なるものあらんを恐る云々

(注) 大隈伯=大隈重信、 和=オランダ、 白=ベルギー、 墺=オーストリア、 西=スペイン、 土=トルコ

 ●僞金つかひ


昨年末より本年に入り松原警察署部内にて銅貨に水銀を塗りて使用し物品及び剰錢を騙取する者ある由届出づるを以て仝署にては専ら探偵を盡し居りしに右被害者は多くは煙草商なるにぞされば仝購客等に尤も注目し居りしところ一昨二十三日正午頃仝署の中村和田八田三刑事が下京區大黒町松原下る煙草商川田安太郎方の店前を通行せし時若き職人体の男がヒーロー一個を買求め錢入より二十錢銀貨を出して剰錢を受取り立去らんとせしかば取敢へず右銀貨を改めしに全く銅貨に水銀を塗りたる模造貨なるを以て直ちに拘引取調べたるに同人は上京區竹屋町通高倉東入る平民當時下京區建仁寺町通り松原下る飾職森震藏方雇人某野某次郎 (十七年) といふ者にて九歳の頃より同家に雇はれ生得機敏にして理化學を好み何事にまれ一見すれば直ちに模造し得る程の器用なれば雇主も末籟もしく思ひ居りしに大膽にも前記の如き手段を以て昨年十月十九日下京區本町馬町東入煙草店岡長太郎方にてヒーロー一個を購ひ剰錢十七錢を仝十二月十五日松原通川原町西入煙草商川村半藏方にてピンヘット一個を購ひて剰錢十六錢を何れも騙取し尚本月十七日仝家に於てガール一個剰錢十六錢を騙取せし旨自白せしを以て昨二十四日儉事局送りとなる (京都新聞社より提供)

地区連絡部門一泊旅行

飛騨の小京都高山と

雄大な北アルプスを臨む

新穂高温泉の旅

開催日 平成12年4月16日-17日

多数のご参加をお待ちしております。



ふれあい美術館

富本憲吉記念館            

 富本憲吉の陶工としての経歴は大正に始まり、 大正のほとんど全部と昭和、 平成の現在に至るまでの全部を通じて陶芸界の第一人者として輝いている。

 富本憲吉は明治十九年、 奈良県安堵 (あんど) 村で生まれ、 11歳で父を亡くすが、 22歳から3年間私費で英国に留学、 先進国の文化を吸収した。

 その後大正2年英国人バーナード・リーチ氏と共に陶器研究に入り、 楽焼を始めた。

 奈良県安堵村に窯を構えて大正時代に染付した 「安堵村風景角皿」 や 「清涼里小景八角鉢」、 「大和額田 (ぬかた) 部田家風景皿」 等は憲吉らしい、 自然の風景をスケッチして作り上げた、 趣のある作品である。

 昭和に入り、 東京祖師谷に本窯を築いてから作陶した、 色絵 「金彩四弁花陶筥」 の他 「五彩竹更紗 (さらさ) 模様大瓢 (ひさご)」 に至ってはその美しさに目を奪われる。

 昭和21年満60歳で京都市東山区に移った憲吉は、 染付、 色絵に加えて金彩、 銀彩、 金銀彩へと展開をとげ、 晩年になるほど複雑で華麗な作風が表現されていった。 赤地金銀彩染付 「村落遠望図大陶板」 等の、 羊歯 (しだ) 模様が大きな特徴である。

 富本憲吉のサイン (署名) は楽しい。 大正期から昭和にかけてその字体はさまざまに変化しているが、 戦後の農地改革で田畑を没収された年のサインは 「富」 の字から 「田」 を抜いて 「H」 にするなど、 ユーモアとも自負とも受けとれる筆跡を残している。

 その後昭和30年、 憲吉は色絵磁器で第1回重要無形文化財保持者 (人間国宝) に認定され、 昭和36年には文化勲章に輝いた。

 昭和38年、 京都美大学長に選ばれ、 77歳の喜寿を迎えた後亡くなった。

 憲吉の作品は、 当時京都のある家庭で食器として使われていたが、 現在でも一部残っていて、 国宝級のため大切に保存されているらしい。 普通の家庭でも使えるような作品の制作 (早く同じ物を描くことを心掛けたこと) に感心させられたが、 それは憲吉が家庭の食器の質を少しでも良くしようと考えたゆえんであろう。

富本憲吉記念館利用案内
〒639-1061
奈良県生駒郡安堵町東安堵1442番地
TEL 0743-57-3300
開館時間/10:00〜17:00
休 館 日/火曜日・8月1日〜10日・          12月21日〜1月4日
入 館 料/一般700円 学生500円
     団体 (20名以上) 2割引


岡山 日生(ヒナセ)
森下美術館

 中南米のエキゾチックな像が出迎えてくれるのが森下美術館です。 外壁は岡山県無形文化財備前焼作家・藤原健制作による一万数千枚の陶板が使われています。 ここは、 日生町で漁網の製造・販売を営んでいた故森下精一氏が私財を投じ、 コレクションを寄贈して昭和50年に開館しました。 氏は商用で南米を訪れた時、 ペルー在住の同業者天野芳太郎氏に出会います。 天野氏は古代アメリカの研究者でもあり、 天野コレクションを見た森下氏も中南米美術の魅力に取りつかれました。 そして独学で研究し、 1,000点をこえる古代アメリカの出土品、 土器・土偶・石彫・織物等を収集しました。

 古代アメリカには、 メキシコ中央部からグァテマラにかけての 「メソアメリカ文化圏」 と、 ペルー・ボリビアに栄えた 「中央アンデス文化圏」 という二つの高文化圏がありました。 またその中間地域、 コスタリカ・パナマ・コロンビア・エクアドルには特色ある文化が栄え、 「カリブ海地域」 にも個性豊かな農耕文化が成立していました。 森下美術館は、 これらの多彩な古代アメリカ文化の貴重な遺産を中南米十カ国に及び収蔵し、 また、 紀元前2500年から紀元1500年までの、 約4000年間にわたる資料が網羅されていることで、 学術的にも価値のあることがわかっています。

 1階展示室には、 南米ペルーからエクアドルにかけて栄えたインカ帝国までの諸文化の土器・土偶・織物を展示しています。

 2階展示室には、 中米メキシコのアステカ文明、 南メキシコからグァテマラにかけて栄えたマヤ文明、 コスタリカやドミニカ共和国の土器・土偶・石彫を展示しています。

森下美術館利用案内
〒701-3204
岡山県和気郡日生町大字日生241番地の10
TEL 0869-72-0222
開館時間/9:00〜17:00 (入館は16:30まで)
休 館 日/月曜日 (祝日・振替休日の場合は翌日)
     12月28日〜1月4日
入 館 料/一般500円 大・高生400円
     中・小生250円
     20名以上団体割引あり

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