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第30回通常総会開催
創立30周年記念式典・祝賀会

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組合の動き・理事会報告
シリーズ京都の人
であい/川柳

No.3
大同生命優績営業社員表彰式
ふれあい美術館
一泊旅行長門湯本/京の文学散歩


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第35回大同生命優績営業社員表彰式

 平成14年5月16日、 リーガロイヤルホテル京都において、 第35回大同生命優績社員表彰式が挙行された。
 式は定刻、 吉澤俊二専務理事の司会で始まった。


 まず、 上田寛理事長が 「厳しい経済環境の中で真摯な努力をして、 表彰される皆様、 心からおめでとうと申し上げると共に、 京税協へのご協力に対し厚くお礼を申し上げる。 又、 大同生命さんの株式会社への組織変更と一部上場された事に心からお祝いを申し上げ、 大同生命の社員として自信をもって活躍して欲しい」 と、 挨拶の後、 舩越和博取締役近畿地区営業本部長が 「昭和49年以来の信頼関係を構築しているが、 近年は経済環境、 競争激化で伸び悩んでいる。 しかし、 この事は次の飛躍への陣痛だと思っている。 そして大同生命が株式会社に組織が変わったということは、 現場の意識として、 目標が単なる目標ではなく、 年間の生産計画は会社の責務として絶対に達成しなければならない株主への約束だと考えている。 この意味においても、 京税協さんとの約束である悲願の保有三千億円は必ずや達成する事を約束する」 と、 力強い挨拶をされた。


 続いて林伸三郎副理事長の経過報告の後、 受賞者一人一人が壇上にて上田寛理事長より表彰状と副賞を受け取られた。


受賞者は次の通り (敬称略)


河内 良子 (5回)

寺井 惠子 (初回)
出野タヱ子 (28回)
小坂 良和 (初回)
大銅裕紀子 (初回)
桐本 博之 (12回)
奥田由佳里 (初回)
小沢 良子 (9回)
原 恵美子 (10回)
塩貝 誠子 (初回)
吉田  梢 (24回)
平井 智子 (3回)
渡邉由利江 (初回)
池浦 佳美 (初回)
藤原  端 (4回)


 

受賞者を代表して最優秀賞の河内良子さんが受賞の喜びの挨拶の後、 千代島道生京都支社長が 「この厳しい経済環境を大きなビジネスチャンスと捉え、 京税協への事務手数料の大幅アップと、 なんとか今年度は保有高3千億円の足がかりを作りたい」 と堅い決意を謝辞にされました。


 その後 「京税協創立30周年の節目の年に、 目標に向かってお互いに頑張って、 来年も、 嬉しい明るい笑顔を見せて欲しい」 と粟田正雄副理事長が閉会の挨拶をして表彰式は和やかな雰囲気の中に終了した。

謝辞
 本日は、 私どもの為にこのようなお心のこもった表彰式を催して下さいまして、 本当にありがとうございます。 また各先生方におかれましては、 お忙しい中お集まり頂きありがとうございます。
 平成13年度は、 私ども営業職員にとりましても、 大変厳しい環境でございました。 景気回復の遅れによるしわよせは、 中小企業へと転嫁されている状況で、 経営者のみなさまのお話を伺うたびに、 心痛く思います。 私といたしましては、 せめて最高の笑顔をお持ちしようと心がけてまいりました。
 私ごとではございますが、 大同生命に入社してこの4月で6年になりました。 入社当初はとても不安な気持ちで総合事業保障プランの推進を続けてまいりましたが、 この度幸運にもこのような素晴らしい表彰をいただけることとなり、 身に余る光栄と感激致しております。 これも偏に、 先生方のご支援をいただいたことに他なりません。 この場をお借りいたしまして心より御礼申し上げます。
 このような表彰を頂いた以上は、 ご支援頂きました先生方ならびに京都税理士協同組合様の発展の為、 保有契約3,000億という目標に向けまして粉骨砕身努力する所存でございます。 とは申しましても、 まだまだ青二才でございます。 かえって先生方の足手まといになるかもしれません。 今後ともどうか、 よろしくご指導のほど、 おねがい申し上げます。
 以上、 本日のみなさまのご歓待に心からお礼を申し上げまして、 大同生命営業社員を代表して御礼の言葉に代えさせていただきます。 誠にありがとうございました。

         大同生命株式会社 京都支社
             第3営業課 河内 良子

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ふれあい美術館

財団法人 大和文華館

〒631-0034 奈良市学園南1-11-6
TEL 0742-45-0544 FAX 0742-49-2929
観覧時間/午前10時〜午後5時 (入館は午後4時まで)
休 館 日/毎週月曜日と年末年始
     ただし月曜日が休日とかさなる場合は開館
入 館 料/<平常展>一般 600円 (団体 540円)
     小学・中学生 300円 (団体 270円) 消費税含む
     団体割引は20名以上、 引率者1名無料

 奈良市郊外、 近鉄学園前の住宅街を抜け、 上空から見ると蛙の足の形に似ているという蛙股池の畔の丘陵地に大和文華館があります。
 近畿日本鉄道株式会社の創立50周年記念事業の一つとして、 当時の社長佐伯勇氏の尽力によって建てられ、 開館しました。
 本館建物は日本的な建築様式を取り入れた造りで、 土蔵や城郭をイメージした海な鼠まこ壁かべが特徴的です。 また、 展示室の中央には竹が植えられた吹き抜けの庭があり、 その竹庭を囲むように所蔵品が展示されているという雰囲気豊かな美術館です。
 本館は、 古代から近代にいたる日本および中国、 朝鮮を主とした東洋の絵画、 書蹟、 彫刻、 陶磁、 漆工などの美術品約2千点を蒐集保管するとともに、 常に新たな蒐集も行っています。 所蔵品の中には、 『寝覚物語絵巻』 『一字蓮台法華経』 を含む国宝4件、 重要文化財31件、 重要美術品13件が含まれています。 これらをテーマごとに展示する平常展は年に約7回、 特別展は年に1回開催されます。 これらの美術品を身近に感じてもらいたいと、 毎週土曜日の午後2時から学芸員による陳列品の解説が行われています。
 また、 美術館を取り囲む丘陵地は 「文華苑」 と呼ばれる野趣に富んだ自然園で、 四季折々の花で彩られ、 松林には野鳥がさえずり、 訪れる人の目と耳を楽しませてくれます。
 訪れた時は、 現在市販されている 「郵便はがき」 の意匠のモデル、 野々村仁清作の 『色絵おしどり香合』 を含む縄文時代から江戸時代末期までの日本のやきもの約九十点が展示されていました。 すぐれた美術品をゆっくり鑑賞した後、 ヤマユリの香りとうぐいすのさえずりに鑑賞の余韻を漂わせるものがありました。
 どうぞ一度お出かけください。

承天閣美術館

〒602-0898 京都市上京区今出川通烏丸東入
 TEL 075-241-0423
 休 館 日/12月27日〜1月5日
 開館時間/午前10時〜午後5時
       (入館は午後4時30分まで)
 入 館 料/大 人 600円 大学生・65才以上 400円
      中高生 300円、 小学生 200円
      20名以上団体割引あり

 

 承天閣美術館は相国寺境内にあり、 相国寺創建600年記念事業の一環として昭和59年に建てられた。 本山相国寺・金閣寺・銀閣寺その他山内及び全国の相国寺派の文化財が展示公開されている。 そこには、 国宝4点・重要文化財111点・重要美術品40点等、 五山文化の美術品であふれており、 中国画・墨蹟・茶の湯のルーツの飲茶などが禅宗とともに日本に伝えられた頃の資料が豊富にある。 なかでも、 金閣寺大書院をそのまま再現し、 そこを飾る伊藤若冲の 「葡萄図」 「芭蕉図」 等の障壁画は必見である。 さらに、 長谷川等伯の屏風絵など、 禅の文化をじっくり鑑賞することができる。


1、 水墨画
 鎌倉時代に伝えられた禅宗は、 室町幕府の保護を受けて隆盛を極め、 室町文化の形成に大きな役割を果たした。 それは多くの禅僧が、 中国に渡り大陸の文化を吸収し、 一流の知識人、 文化人、 文人としてその才能を発揮したことによる。 また、 絵画においても、 禅宗が伝来した初期は絵仏師が国内の需要に応じていたが、 次第に禅僧が制作を手がけるようになり、 可翁や明兆のような専門的画僧が登場し、 さらに周文や雪舟が活躍して個性的作風を示したのである。


2、 伊藤若冲
 江戸時代中期の相国寺は、 禅宗文化の拠点であったが、 その代表が奇才の画家として知られる伊藤若冲であった。 若冲は、 世俗を捨てて禅宗に深く帰依する宗教人でもあり、 相国寺の住持大典和尚と深い交遊関係を結んでいた。 そのため、 相国寺・金閣寺・銀閣寺に伝来する中国や日本の古画に親しく接する機会に恵まれた。 特に、 「釈迦三尊図」 は 「動植綵絵」 と共に毎年相国寺で公開されたため、 若冲の名は万人に知られるようになったのである。


3、 茶の湯
 鎌倉初期、 栄西禅師が茶道具一式と茶種を宋から運び、 抹茶を飲む風習が日本に広まったと言われている。 禅院の茶は、 嗜好品として足利将軍家等の間に流行し、 華やかな茶会が催されるようになった。 室町末期には茶は全国的展開をみせ、 千利休らによって完成された茶の湯は、 禅的精神が色濃く投影された 「枯淡幽玄」 ともいうべき侘び数奇へと昇華したのである。

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一泊旅行写真コンテスト 長門湯本温泉

 地区連絡部門では、 去る4月21日・22日の一泊旅行 「萩・長門湯本温泉、 ハートフルコースの旅」 の写真コンテスト審査会を7月4日に行いました。
 今年は写真家の阿部士倖先生の立会はなく、 上田寛理事長をはじめ、 廣瀬伸彦副理事長・粟田正雄副理事長・吉澤俊二専務理事・作見藏市地区連絡委員長・今井弘子編集委員長、 合計6名の関係役員が集まり厳正に審査致しました。
 昨年から先生方のカメラによる撮影で、 今回は、 府下各地区から15名 (32点) の応募がありました。 今年も最優秀賞の該当者はなく、 優秀賞には、 伏見支所の澤木英雄先生・宇治支所の片野晏弘先生が輝かれ、 また、 上京支所の伊藤正夫先生・上京支所の澤村邦雄先生・下京支所の梅景富士夫先生・右京支所の石原豊先生・右京支所の今井弘子先生・舞鶴支所の橋本彰二先生が入賞されました。
 この表彰は、 7月26日開催の当組合創立30周年記念祝賀会の席で行われました。 受賞者の皆様おめでとうございました。

一泊旅行写真コンテスト 入賞者 
(敬称略)

賞区分 支所 氏名 寸評
優秀賞 宇治 片野晏弘 池の様子が水面に映し込まれた影とともに静寂を感じさせます。 (昨年:入賞)
優秀賞 伏見 澤木英雄 境内の情景が右奥の人によって良く表現されています。
入賞  上京 澤村邦雄 旅行中の象徴的な鍾乳石のようです。 石の質感が表現出来れば良かったと思います。 (昨年:入賞)
入賞 下京 梅景富士夫 可愛い地蔵尊です。 もう少し右に寄って、 この主題をもっと強調されたら面白い写真が出来ます。
入賞 舞鶴 橋本彰二 手前の樹木の鍾乳の被れの様子がもっとはっきりとしていると引き立った写真になります。
入賞 上京 伊藤正夫 もっと前に出て二本の木を強調すると古い寺院の情景が生きて来ます。
入賞 右京 今井弘子 拡く撮し過ぎて平板になっています。 灯籠に近づくと奥行のある写真になります。
入賞 右京 石原 豊 灯籠と花を主題にしてまとめると、 グーンと締まって来ます。
  入賞 上京支所 澤村邦雄

優秀賞 宇治支所 片野晏弘

優秀賞 伏見支所 澤木英雄

入賞 下京支所 梅景富士夫

応募総数 15名・32作品 (今回は最優秀賞該当者なし)

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予 告
トリニテーシステム特別講演会
【資産税に関する実務研修会】

月 日 11月11日(月)
  場所 京都商工会議所 3階

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京の文学散歩

 −藤原定家『明月記』−    宇治支所 井上 玲子

  『明月記』 は、 冷泉家の祖藤原定家の日記である。 藤原定家は鎌倉前期の天才的な歌人であり、 『新古今集』 や 『新勅撰集』 の撰者として有名な人物である。 『明月記』 は、 治承4年、 定家19歳の時より仁治2年80歳で没するまでの記録で、 内容は政治、 文学などかなり幅広く、 当時の世相を知る上で重要な史料となっている。


 冷泉家は定家の孫にあたる藤原為相を初代とし、800年余にわたって和歌の宗家として歌道を守り伝えてきた 『和歌の家』 である。 地下鉄烏丸線の今出川駅を降りるとすぐに、 京都御所の北側、 同志社大学の今出川キャンパスに周りを囲まれるようにして建っている屋敷を見つけることが出来る。 冷泉家が現在の位置に屋敷を構えたのは、 慶長年間 (1600年頃) とされており、 1788年の天明の大火の時に御文庫などの土蔵以外の建物は焼失したが、 屋敷はすぐに再建され、 現存する最古の武家屋敷として重要文化財にも指定されている。


 

藤原定家は応保2年 (1162年) に藤原俊成を父とし、 摂関家から源を発する御子左家 (みこひだりけ) と呼ばれる公家の家に生まれた。 定家が生まれたのは俊成の邸の五条邸であったが、 場所は五条京極か五条室町あたりにあったとされている。 この家に定家は20歳の頃まで住んでいた。 14歳の時には、 父俊成に替わり侍従となり、 官界へ出仕している。 19歳になり 『明月記』 を書き始めるのだが、 その9月の日記には有名な記述である 「世上乱逆追討耳ニ満ツト謂モ之ヲ注セズ。 紅旗征戒吾事ニ非ズ」 という言葉が記されており、 政治権力よりも歌の道に生きようとした定家の決心がうかがえる。 だが、 実際は官位昇進にはげしい意欲をもっていた人物であったようで、 その後の 『明月記』 にも昇進のことは度々登場する。


 文治2年には、 九条家に仕えるようになる。 そのころの九条家は兼実全盛の時代で、 和歌にも強い関心をいだいていた兼実のもとで、 定家は歌道に精進している。 20代後半から30代前半の定家の歌は、 その若さと恵まれた環境のもとで、 言葉の技巧に煩わされることのないあふれ出る感情をロマン的に盛り込んだ華麗なものが多い。 だが、 その恵まれた環境も長くは続かなかった。 兼実が、 源道親の政変により政界から追放されたのである。 周りの環境の悪化とともに定家の歌風もロマン的なものから官能美や抒情美を追求したものになる。 これは定家の心の底にある暗黒なものに対する、 美によるレジスタンスなのであった。 だが皮肉なことに、 この反抗性を基調とする定家の絢爛、 華麗な歌風は後鳥羽上皇の共鳴を受けることになる。 そして建仁元年 (1201年) には、 上皇が催した空前絶後の大規模な1500番歌合に参加するなど、 妖艶美な歌にはますます磨きがかけられてくる。 元久元年 (1204年) には、 後鳥羽上皇より 『新古今集』 の撰進の命を受け撰にとりかかる。 『新古今集』 には定家の歌は41首収められているが、 そのうちの一首には、

春をへて
 みゆきになるる花のかげ
ふりゆく身をも
    哀れと思ふ

がある。
 妖艶美、 反抗美に花を咲かせ華麗に活躍した定家であったが、 『新古今集』 の撰以来歌の数は急に少なくなっていく。 定家の歌のよき理解者であった後鳥羽上皇に、 官位昇進に対する不満を歌に託しておくったことで上皇から蟄居させられたりしている。 その後、 後鳥羽上皇は承久の乱を起こし、 遠島配流の身とされるのであるが、 このころの定家は精神的、 肉体的にも厳しい環境におかれていた。


 承久の乱が過ぎるころ、 定家は一条京極に邸をかまえる。 京極通りは今の寺町通りであるので、 現在京極小学校が建っているあたりに邸があったと思われる。 移転に際し、 近くに住む西園寺公卿から

あたらしき
春をちかしとさきくさの
 三葉四葉に
   かねてしらるる

の歌を送られ、 定家は

頼むかな
  春と君としまちかば
三葉四葉の
   千世のとなりを

の歌を送っている。 この邸は、 度々の増築を重ねかなり豪華な邸宅であったようだ。 このころ定家は60歳を越えており、 京都歌壇の大御所としての地位も確立していたので、 この邸には歌人たちを集めて歌会や連歌会をよく催している。 貞永元年 (1232年) 71歳の時に官位も退き、 『新勅撰和歌集』 の撰進の命をうけ撰歌にとりかかっている。 『新勅撰』 の定家の歌は、 新古今のころの歌とは違い有心的で抒情的なものが多い。
  『新勅撰和歌集』 以後の定家の事績として知られているのが 『小倉百人一首』 の撰歌である。 定家は嵯峨に山荘をもっており、 時々訪れては気分転換をしたり、 疲れをいやしたりしていた。 場所は二尊院と釈迦堂の間のあたりであったようだ。 定家がその庵で詠んだ歌に

結び置きし
  秋の嵯峨野の庵より
床は草葉の
    露に濡れつつ

という歌があるが、 いかにも自然に囲まれたひなびた山荘らしさがただよっている。 その庵から1キロほど離れたところに宇都宮綱頼の別業があった。 宇都宮綱頼は定家の子為家の妻の父であり、 関東一の富豪といわれた豪族であった。 その別業の障子 (ふすま) に貼るために、 百枚の色紙に歌を書いてほしいと頼まれた定家は、 天智天皇より家隆、 雅経に至るまでの歌を撰んで綱頼に送っている。 これが世に 『小倉百人一首』 とよばれるものである。 その別業のあとは、 厭離庵という風流な庵となって残っている。

 定家は80歳で生涯を閉じている。 今でこそ日本人の平均寿命は80歳を越えているが、 当時としてはかなりの長命であったであろう。 定家ばかりでなく父俊成は91歳、 子為家は78歳、 孫為世は89歳といずれも長命であった。 このことは御子左家が歌道の家として繁栄した重要なファクターとなったにちがいない。


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