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No.1へ
第30回通常総会開催
創立30周年記念式典・祝賀会

No.2
組合の動き・理事会報告
シリーズ京都の人
であい/川柳

No.3へ
大同生命優績営業社員表彰式
ふれあい美術館
一泊旅行長門湯本/京の文学散歩

組合の動き
5・31 基本問題検討特別委員会開催
6・5 学院・簿記実務コース開講・全7回 (第6回目)
講師 竹内政明 先生 参加 14名
6・5  保険委員会開催
6・6 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (4回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
6・6 財務委員会開催
6・6 事業委員会開催
6・11  正副理事長会開催
6・11  予算編成準備会開催
6・12 学院・簿記実務コース開講・全7回 (第7回目)
講師 竹内政明 先生 参加 14名
6・13 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (5回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
6・13 海外旅行説明会開催
6・14 学院・短期講座開講 「資本取引をめぐる税務の諸問題」
講師 垂井英夫 先生 参加 58名
6・15 近畿青年税理士連盟定期総会出席
6・15 トリニテーシステム20周年記念式典出席
6・20 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (6回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
6・20 税務便覧制作委員会開催
6・20 予算審議理事会開催
6・20 全税共ミニ業推開催
6・21 近畿税理士会第38回定期総会に出席
6・26  保険委員会開催
6・26 全税共参加生保との業推会議開催
6・27 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (7回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
7・1  期末監査 (予備) 実施
7・3 正副理事長会開催
7・3 常務理事会開催
理事会開催
7・4 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (8回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
7・4 一泊旅行写真コンテスト審査会開催
7・5 期末監査実施
7・9 学院・短期講座開講 「平成14年度税制改正実務上のポイント」
講師 竹仲 勲 先生 参加 43名
7・10 編集委員会開催 (第98号の編集方針について検討)
7・11 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (9回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
7・11 第2回代理店講演会打合せ開催
7・12 税務便覧制作委員会開催
7・16  学院・短期講座開講 「平成14年度税制改正実務上のポイント」 (福知山)
講師 竹仲 勲 先生 参加 39名
7・17 保険第1小委員会開催
7・17  保険第2小委員会開催
7・18 学院・実務講座開講 「相続税申告の実務」・全10回 (10回目)
講師 安井伸夫 先生 参加 28名
7・18 基本問題検討特別委員会開催
7・18 相談役会開催
7・24  税務便覧制作委員会開催
7・26  正副理事長会開催
7・26 第30回通常総会・創立30周年記念式典・記念コンサート・記念祝賀会開催
(於 京都ホテルオークラ)
7・27  基本問題検討特別小委員会開催
7・29 税務便覧制作委員会開催
8・1 基本問題検討特別委員会開催
8・1 第2回大同生命代理店講演会開催
8・2 事業委員会開催
8・2 事業推進協議会開催
8・3 全国青年税理士連盟第35回定期総会出席
8・5 編集委員会開催 (第98号の編集割付について検討)
8・6 税務便覧制作委員会開催
8・7  法規諸規則委員会開催
8・7  基本問題検討特別委員会開催 (会館取得に伴う設計業者との打合せ)
8・12  財務委員会開催
8・19 編集委員会開催 (第98号のゲラ校正)
8・20  学院・パソコン講座開催 (立命館大学)
講師 田中久喜 先生  参加 24名
8・20 編集委員会開催 (第98号のゲラ再校正)

理事会報告

◆第1回理事会

 平成14年度第1回理事会を6月20日午後2時30分より開催致しました。
 当日の出席状況は次のとおりでした。

理  事

39名

監  事

5名

相談役

6名

[決議事項]

第1号議案
 第31期予算案承認の件
 第31期の事業計画及び収支予算案が各部門担当の常務理事より提出され、 審議の結果原案どおり承認され、 7月26日開催の通常総会に提出することとなりました。

◆第2回理事会

 平成14年度第2回理事会を7月3日午後3時より開催致しました。

理  事

42名

監  事

5名

相談役

5名

[決議事項]

第1号議案
 組合加入承認の件
 次の15名の組合加入が承認されました。
 なお、 組合員総数は1,427名、 出資金総額は14,013万円となりました。
 

(申込順・敬称略)

杉本 貴幸 蓮沼  誠 粟津  進 安居 健次 宮本 佳子
枡岡 福美 加納 輝尚 木下 千鶴 稲岡まゆみ 齊藤 一男
尾崎  啓 佐川 英雄 小長谷敦子 久保田和子 土井甚太郎

第2号議案
 第30回通常総会議案審議の件
 事前に送付している 「第30回通常総会議案」 (案) の第1号議案 (事業報告及び財務書類承認の件) ・第2号議案 (事業計画及び収支予算承認の件) について訂正並びに説明があり、 出席者に諮ったところ全員異議なく了承されました。 第3号議案 (借入金最高限度額承認の件) については、 最高限度額を例年どおり1億円で上程したい旨、 この件については、 臨時総会を後日開催する予定である旨説明があり、 出席者に諮ったところ了承されました。

第3号議案
 組合員趣味の会助成額承認の件
 福利厚生事業 「趣味の会」 の助成金については、 活動状況等の報告がありました。 今年は、 京都税理士囲碁同好会・京税謡曲同好会・宝ケ池テニス同好会の三団体から助成金申請があり、 昨年決定した同額の助成金を支出することについて出席者に諮ったところ全員異議なく承認されました。

[審議並びに報告事項〕

1 第30回通常総会及び創立30周年記念式典開催準備の件

○総会次第及び担当者について…資料に基づき説明があり大同保険推進協議会 「大同賞」 ・全税共
文化財団 「助成対象団体の助成式」 の表彰も開催する旨報告がありました。

2 創立30周年記念事業実行委員会報告の件

○総務委員会…組合員の記念品については、 「電波時計」 が別途発送される旨報告がありました。
○表彰委員会…表彰者及び表彰基準については、 第1号基準から第5号基準までを、 表彰委員会で
決定し、 その基準に該当された各先生方或いは、 各提携先を記念式典に於て、 代表者を表彰する旨の報告がありました。
○広報委員会…記念プログラムについては、 パンフレットに基づき説明がありました。
○保険委員会…ポイントGETキャンペーンについては、 本来なら1年間の期間で展開したいところを4月〜9月までの半年キャンペーンとし、 総会で経過報告と今後のねらいを述べたいと報告がありました。
また、 8月1日の、 第2小委員会の講演会及び各協議会に積極的に参加していただきたいと報告がありました。
○事業委員会…記念旅行 「ケアンズ&エアーズロック」 については、 現在76名の先生並びにご家族の方の申込みがある旨報告がありました。

3 各部門報告の件

○学院部門…各講座開催状況の説明があり、 まだ若干人数が少ない講座もあるので、 参加をお願い
したいと報告がありました。
○保険部門…全税共第17回全国統一キャンペーンは、 営業職員・支社・機関長を対象に10月1日
〜11月30日の期間で実施し、 表彰式は平成15年1月20日に京都ブライトンホテルで開催したいと
報告があり、 また、 第2回大同代理店講演会は前回が大変好評であったため開催することになった経緯が報告されました。 簡易保険については、 団体扱いの保険契約者は、 税理士本人であるとの指摘が
あり、 今後、 中京郵便局との話し合いを持ちたいと報告がありました。
○地区連絡部門…1泊旅行の写真審査については、 慎重に審査会を開き、 受賞者については、 創立
30周年記念祝賀会の中で表彰する旨報告がありました。
 全税共チャリティーゴルフ大会については、 10月24日に開催予定しており多数の参加をお願いしたいと報告がありました。
○基本問題検討特別委員会…「会館の取得」 については、 以前から数カ所候補地としては挙がっていましたが、 当方の条件に合わず更に探していたところ、 京都市役所近辺で御池上ルの場所が急浮上してきたため、 好条件のことでもあり、 更に慎重に話を進めていきたいと報告がありました。


ODCキョート ドライブクラブ解散の記

 戦後20年たった昭和40年頃、 日本経済復興の中で自動車の普及もめざましく、 税理士も業務用として

乗用自動車を所有する者が増え、 そんな中で年に1度位はドライブ愛好者が集まり、 ドライブ旅行をしてはと、

以来30数年、 家族ぐるみの2泊3日、 600キロ以上の行程でドライブ旅行が始まりました。 参加台数15台前後、

参加人数は約50人で、 その行程、 宿泊地は毎年の幹事の創意によって定められ、 いずれも好評で、 実に楽しい

行事となっていました。 これがODCキョートドライブクラブです。

 毎年凡そ8月初旬に実施されてきたドライブツアーは、 30年も続けますとメンバーの老齢化がすすみ、

マイカーの運転そのものがきびしくなり、 平成9年8月の 「信州松本、 別所温泉の旅」 では現地において

1日バス旅行となり、 翌年からはチャーターバス組とマイカー組と分れての参加となり、 はたしてこれがドライブ

ツアーといえるかと批判もあり、 そんな事よりもマイカーによる参加が2、 3台という淋しい状況になってきました。

 そこで当クラブの存続の可否をメンバーにアンケートしたところ、 存続希望がたった5人で、 他の57人からは

解散してはとの結論になった次第です。

 昭和39年7月 「大和路から紀州和歌の浦へ」 を第1回とし、 平成13年8月 「淡路島1周と鳴門」 を最終回として

実に39回の実施、 参加延1,119人というすばらしい実績を残して解散しますのは、 平成5年度より組合員が

グループで行う福利厚生活動の故をもって助成金を頂いてきた当クラブとしては、 まことに残念の極みであります。

 平成14年4月26日、 その 「さよなら

パーティ」 を都ホテルで開催し、 参加

58人は 「マジックと南京玉すだれ」 の

友情出演や、 過去数回のなつかしい

ビデオ上映を観賞しつつ、 にぎやかな

お別れの会がすすみ、 40年近く当クラブ

の運営に指導的役割をはたしてきた人々

には、 感無量の想い出で一杯でした。

 今後は、 この有意義な企画を埋れさす

事なく、 若い組合員によって存続されます事を祈ってやみません。       (広瀬来三 記述)


シリーズ
京都のひと

ひせん ましもたききち

飛泉・真下瀧吉

(1878〜1925) 

 今年も8月15日がめぐってきた。 先祖のお墓参りをする人たちが集落の墓地に絶えない。 その墓地にひときわ高くそびえ立つ石碑がある。
第二次世界大戦で亡くなった兵士の墓である。墓碑にはギニアビアク島で戦死と記されている。 日本から遠く離れた戦場で戦っているとき、 この歌 「戦友」 が脳裏を横切ったであろうか。
     伏見支所 幡山 玲子

「戦 友」 真下飛泉 作詞
ここはお国を何百里 離れてとほき満州の
赤い夕日にてらされて 友は野末の石の下
思へばかなし昨日まで 真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はこゝに眠れるか
ああ戦の最中に 隣にをつた此友の
俄かにハタと倒れしを 我は思はず駆け寄つて
軍律きびしい中なれど 是が見捨てゝ置かれうか
「しつかりせよ」 と抱起こし 仮繃帯を弾丸の中
折から起る突貫に 友はやうやう 顔上げて
「お国の為だ関はずに   後れて呉な」 目に涙
あとに心は残れども 残しちやならぬ此身体
「それじや行くよ」 と別れたが 長の別れとなつたのか
戦すんで日が暮れて さがしにもどる心では
どうぞ生きてゐて呉よ 物なと言へよと願ふたに
空しく冷えて魂は 故郷へ帰つたポケットに
時計ばかりがコチコチ と 動いてゐるも情けなや
思へば去年船出して お国が見えずなつた時
玄界灘に手を握り 名を名乗つたが始めにて
それより後は一本の 煙草も二人わけてのみ
ついた手紙も見せ合て 身の上ばなしくり返し
肩をだいては口ぐせに どうせ命は無いものよ
死んだら骨をたのむぞと 言ひかはしたる二人仲
思ひも寄らぬ我一人 不思議に命ながらへて
赤い夕日の満州に 友の塚穴掘らうとは
くまなくはれた月今宵 心しみ じみ 筆とつて
友の最後をこまごまと 親御へ送る此手紙
筆の運びはつたないが 行燈のかげで親達の
読まるゝ心思ひやり 思はずおとす一雫

 

 この歌は 「出征」 「露営」 「戦友」 「負傷」 「看護」 「凱旋」 「夕飯」 「墓前」 「慰問」 「勲章」 「実業」 「村長」 と続く

12篇の叙事唱歌の中の一篇である。 武雄という主人公が、 出征して、 戦地での友の死や自らの負傷を乗り越え、

生還し、 事業をおこして後村長になるという筋書きの叙事唱歌である。 これらの歌は、 実際に

あったことを下敷きにうたわれている篇もあり、 また飛泉の思想が教訓的に披瀝されている

篇もある。

 この一連の唱歌のもとは京都府師範学校付属小学校の訓導時代彼が学芸会の為に書き

下ろした 「出征」 を、 生徒達が主人公の武雄役や村人達になってオペラ風に演じ、 それが

評判となって歌詞の希望が相次ぎ、 次々と続篇が編まれたのである。

 この唱歌は、 当時一般的であった文語調の難解な唱歌とは違って、 言文一致調で書かれ、 親しみやすいメロ

ディーと相まって人々に広く愛唱された。

 この国民的愛唱歌の作者として有名な飛泉・真下瀧吉は明治11年京都府加佐郡河守町 (現在の大江町)

字川守小字新町に農業を主として営む真下石次郎・すての次男として生まれた。

 生誕地の河守町は、 由良川沿いの舞鶴と宮津への分岐点に位置し、 交通の要所として賑わった町である。

町の産業としては、 農林業の他にロウソクの製造、 製紙、 搾油、 そして時代を下って製糸業が盛んであった。

 真下家も農業の傍らロウソクの製造販売に従事していたようである。 飛泉は、 河守尋常小学校を卒業後、

家計が苦しくすぐには高等小学校に進学できず、 一時期糸問屋に奉公にでていた。 しかし彼の向学心は強く、

河守町他五ケ村組合立高等小学校ができたのを機に父親に懇願して高等科入学を認めてもらい、 高等科3年に

編入している。 そこで彼は小墻近太郎氏に厚情を受けて勉学に励み、 優秀さが認められたのであろう、 高等科4年

には、 在学しながら公庄尋常小学校の代用教員を勤めている。

 高等小学校卒業後、 小墻近太郎氏ら恩師に勧められたのか、 京都府師範学校に入学している。 当時の師範

学校は全寮制で、 授業料は要らず、 日用品からお小遣いまで支給されたそうである。 学校では教育勅語を中心と

する天皇制国家主義の教育方針の下、 正規の授業科目以外に軍事教練があり、 武術が奨励され、 非常呼集等が

頻繁に行われて、 まるで士官学校のような体をなしていたようである。

 飛泉は軍国主義的な師範学校にあって、 武術よりむしろ文学に傾倒し、 この時期 「文庫」 や 「少年文集」 等の

雑誌に小説を多く投稿している。 このうち 「万朝報」 への投稿が放校問題に発展し、 1週間の外出禁止処分を

受けている。

 師範学校卒業後奉職した有済尋常小学校訓導時代においても、 引き続き 「文庫」 や 「よしあし草」 に短編を

投稿し、 各地の文人と交友している。 明治32年与謝野寛が新詩社を結成した時、 飛泉は 「与謝野の気概と反骨

精神に共感し、 与謝野の人格に魅せられ」 て弟子となり、 新詩社京都支部の幹事として精力的に活動している。

明治33年に創刊された 「明星」 に投稿した彼の短歌はあわせて52首にものぼっている。

 この後文学者として表だった活動は少なくなり、 活動の重点を教育現場に移し、 文芸美術活動を教育の場で

実践していく。

 有済校の4年間の勤務を終え飛泉は京都府師範学校付属小学校の訓導として赴任する。 この時期に先述した

「出征」 を学芸会で上演し、 その後の一連の歌が作られていくのである。 そもそもの発端は生徒が 「歌ひつつ

感興に入る」 ことができない唱歌ではなく、 わかりやすい唱歌をめざして子どもの為に作られたものである。 この

一連の唱歌が爆発的に人々に歌われた結果口語詩確立の1つの契機となったといわれる。

 飛泉は付属小時代韻文教授法の研究を行い、 尋常小学読本に採用された韻文 「家」 を作ったり、 韻文授業の

実践記録を残したりしている。 また、 綴方教授法についても研究しはじめ、 これはその後の修道尋常小学校、

尚徳尋常小学校においても 「綴り方は児童の生活其まゝを表現せしむべき」 であり、 「彼等が喜んで発表せんと

する様に文学的に油をそそいでやるべき」 と主張し、 実践している。

 学習環境についても、 教訓的道徳的なものを教室の装飾から排除し、 「芸術的な基準で選択した額をかかげたり、

花瓶に花を生けて」 飾ったりして、 児童が気持良く過ごせるよう意を尽くしている。 次の赴任校修道校や尚徳校でも

児童の心の中に美しい物への感興を呼び覚ますよう、 学習環境を整えている。

 この時期飛泉はある種大衆教育ともいうべき京都お伽倶楽部の活動にもかかわり、 「月のお宮」 というお伽噺を

創作したり、 お伽噺口演を行っている。 そのとき知り合った鈴木吉之助の引きで、 当時荒れていた修道校の再建を

託されている。

 修道校の校長として飛泉は物心両面の教育

環境の改善に力を注ぐ。 優秀な教員の確保は

もとより教授法の改善等教員の質の向上に

努めると共に、 校歌を制定し、 児童の人格

形成に役立つような事柄を掲示する掲示教育を

行ったり、 校外指導を積極的に実践したりした。

 特筆すべきは学校教育だけでなく社会教育にも力を注いだことである。 文部省公認の児童専門図書館である

私立修道児童文庫を開設し、 広く一般に公開している。 これは 「卒業後直ちに社会へ踏み出するものの多い

我校の如きは、 特に読書の習慣をつけて置くことが児童将来の向上発展の唯一の道」 との考えから設立された

ものである。 また、 飛泉は、 職人の多い修道学区の土地柄、 義務教育の中途退学者が多いことを考慮し、 家庭の

事情で進学できない子、 遠くの学校へ通えない子どもを対象に 「京都市修道補習学会」 をおこして、 勉強の機会を

与えている。

 京都の小学校は学区民の力によって建設された経緯から学区会議員及び学務委員が大きな権力を有し、 人事権

等を握っていた。 飛泉は尚徳学区の有力者の要請を受け修道校から尚徳校へ移る。

 尚徳学区は下京の商業の中心地にあり、 裕福な保護者が多い。 この恵まれた学区環境の中で彼は教育の

理想を実現すべく力を発揮し、 自由と創造の気風がみなぎるよう、 教員や児童を導いている。

 彼は学区民の寄附を受けて教室の増改築を行い、 特別衛生室を設置し、 プールやシャワーを拵えるなど物的

条件の整備に力を注いでいる。 また、 制服を制定したり、 学用帖を定め、 それを売る購買部を設置して、 児童を

販売にあたらせたりしている。 教育実践としては課外読本を配布し、 児童文集を編纂し、 話し方の練習を行わせる

など、 児童の国語能力の開発に力を注ぐと同時に、 自由画を実践し、 展覧会を開いたり、 校外教育にも力を注ぎ、

臨海学校も実施している。

 教え子の1人東大名誉教授の大塚久雄氏は、 追想の中で、 「尚徳校には、 学校全体の先生方の中に自由な

雰囲気があった。 これは大正自由主義の時代のためでもあったが、 真下先生の自由な気分が、 これを作りだして

いたのではないだろうか」 と述べている。

 この革新的な教育も突然其の芽を摘まれることになる。 京都市の多久助役により突然学区に何の相談もなく

飛泉に成逸尋常小学校長への転任辞令が下ったのである。 これに対して学区民は怒り、 学区会議員らの大半が

辞職して抗議をしたのである。 市と学区民との話合いの中で、 「真下校長は、 今回の左遷は残念で、 後任校長に

後事を安心して託せないと言った」 と学区民から聞いたと、 助役が議会で発言したことが、 事を紛糾させ、 温厚な

飛泉をして校長会の席で 「助役に虚偽の事項を発表させられ、 非難攻撃の的となっている」 として飛泉の発言に

ついての市の調査なるものの内容を公開せよとつめ寄らせた。

 この騒動に関して与謝野寛らは飛泉の名誉回復を願い、 与謝野晶子を含む8名の連署で、 京都市長に対し調査

内容の公開と陳謝を求める公開書を作成した。 この書面は水面下の折衝で事が解決されることになり公開され

なかったが、 関東大震災が起こって、 この件は結局うやむやになってしまい、 彼は26年間の初等教育家としての

活動を終えることとなった。

 浪人中の飛泉は私立小学校の設立を考えたが、 資金面で断念せざるを得ず、 その後東山中学校へ勤めた。

彼は中学で教える傍ら、 彼の名誉回復には議会へでることだと考えた学区民の有力者の後押しもあって、

市議会議員に立候補し、 最高得票で当選した。 しかし教育のわかる議員としてこれから活躍という時、 49才という

若さで、 病の為急逝した。

 飛泉の葬儀には何千という人が集まり、 1周忌には知恩院境内良正院前に1、824名の寄附により記念碑が

建立され、 現在に至っている。

 彼の生涯は、 文学者・歌人としての活動に焦点が当てられがちであるが、 むしろ其の生涯を貫いたものは、

教育に国家の存亡をかけた明治期にあって 「人間を愛し、 世話をして育てていく」 事を使命とする教育者としての

強い自負であり、 「文は人なり」 の教育理念の実践であった。

  「軍国主義が壊れても、 国家主義がぐらついても、 産業組織や貨幣制度が転倒する世の中になつたとしても、

恐らく教育といふ仕事は寸分動きは致しますまい。 人生の根底から絶対的に必要なこの仕事に従事してゐる事を

私どもは衷心幸福だと思ってゐます」 と彼は教育に対する信念を述べている。

 飛泉の行った教育実践は現在では当然の事として各学校で実践されていることである。 しかし日清・日露戦争を

経て明治から大正に至るあの時代にあって、 児童本位の教育を実践し、 想像力豊かで自由闊達な子どもを育てる

ことを教育理念とした飛泉の先駆性は充分評価されるべきであろう。

 なお、 飛泉の写真は京都市立東山小学校 (旧修道小学校) 校長藤本栄樹氏のご厚意で修道校歴代校長肖像と

して保存してあるものを撮影させていただいた。 ここにお礼申し上げる。

参考資料
佐々木正昭著 「真下飛泉とその時代」 鞄本図書センター
宮本正章著 「真下飛泉−その生涯と作品−」 創 元 社


私は英会話 と

出会った

左京支所 辰巳 修偉

 私は毎日酒を飲みます。 その習慣はここ30年間続いております。 いかに楽しいこととは言え、 さすがに 「こんな

飲んでて大丈夫かな?」 と素朴な疑問を持ったのが約10年前。 何かせなあかんな。 そや、 歩いたろ!

物を買うのが好きな私は直ぐにルームウォーカーなるものを取り寄せました。 ガラガラと大きな音を出しながら…

10分、 もう汗がダクダク、 30分、 もうたまらん、 しんどい?違う、 退屈なのです。 数日間続けて、 これはどうにも

ならん。 何とかしなければ、 そや、 ラジオ聞いたろ!NHK第2、 基礎英語、 内容は中学生程度。 これが外人が

しゃべると皆目聞きとれなかったのです。

 ルームウォーカーを捨て、 自然の山道を楽しむようになりました。

お供はウォークマンです。 ソフトは、 NHKラジオ英会話のカセットを

毎月買って利用しました。 以来9年間、 毎朝6時からの速歩1時間

が私の英会話教室です。 「石の上にも3年」 あれは真実だと分かり

ました。 毎日の番組を聞き続けて3年目、 それまで解説を聞かない

と分からなかったゲストの会話が、 突然理解できるようになったの

です。 以後牛の歩みの如くではありますが、 徐々に話せる内容が

広がっていると思います。 毎週1回程度、 外人に家庭教師をお願

いして1時間の会話を楽しんでおります。 最近強く感じます、

テクニックよりも内容だと。 話の引き出しをどれくらい持てるかが

大事です。

 私には夢があります。 ルート66をドライブすること。 あのマーティン・ミルナーやジョージ・マハリスが走った道を。

いまも一部は残っているそうです。 そして、 ララミー牧場のジェス・ハーパーことロバート・フラーに会いに行くこと

です。 彼もすでに69才のはず、 会って、 40年前のTV映画にタイムスリップしてみたい。 自信があります。 願った

ことは叶います。 ザッツ、 マイドゥリームベイケーション!


はじめての

中  国

左京支所 伊良知弘敏

 この7月の初旬に、 とある旅行で初めて中国へ行った。 全日空で約3時間飛んで廈門・泉州方面に着いた。

現地のガイドさんは、 朱偉恩さんといい、 日本語を流暢に話す

年の頃30才前後の男性であった。 現地のホテルのフロントでも

なかなか日本語が通じないのに、 外国語を話せることがより良い

職業を選択できる1つの大きな要因になるのだなと改めて認識し

た。 朱さんは、 中国で8番目に入学するのが難しい廈門大学を卒業

したとのことで

ある。 廈門は

中国有数の貿易港として栄え、 現在は経済特区として中国

経済を牽引する、 その一翼を担っている。 バスの中から街を

観光した後、 胡里山炮台へ行った。 清末の1891年、 海防の

ため造られた砲台跡で、 主砲座にはドイツから購入したクラップ

砲がいまも残っていた。 その先には台湾領の小金門島などが

望めた。 次の日、 本土の泉州へ立派な高速道路を使って渡った。 まず唐代に創建され、 福建省で最大規模の

開元寺を参拝した後、 清源山風景名勝区の公園に行って、 宗代に造られ高さ5m幅7mにもおよぶ天然の岩を

彫った老君像に驚いたり、 海外交通史博物館ではインドやイスラム教国などとの交易の記録や遺物の展示を

見学したりした。

 3日目、 廈門の製茶工場に寄った。 立って説明をしてくれている女性の右側に座って、 日本語に通訳してくれて

いる男性がガイドの朱さんである。 今回、 中国へ行って思ったのは、 街の中心部の道路は立派で会社や工場も

たくさん出来ていたが、 中心を少し離れると道はデコボコだらけでその落差にも驚かされた。 また現地の人の

平均的賃金は日本の20分の1程度とのことだが、 かたや

高級車のベンツに乗る人がいて、 かたや自転車に荷物を

乗せて行商する人や、 戦争か事故で手足をなくした人や目を

失った人が物乞いをする姿もみられ、 心が痛んだと同時に

貧富の差が激しいと思った。

 しかし私には、 先の日本との戦争で戦っていた相手国の

日本人を自分の子供として、 大きくなるまでずっと育ててくれた

やさしい国民性と、 ガイドの朱さんがだぶって見えたのである。


川  柳

右京支所 櫻井 武

原爆忌 語部かたりべの背な丸くなり
前書きも後書きもある黒い霧
少しづつシッポが伸びてくる疑惑
医療費の負担が首を締めにくる
「…… でアルカ!」 信長本能寺に憤死


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