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選抜高校野球大会に寄せて
峰山地区 藤原 邦夫
峰山町は京都府の最北端に位置しており、 1年を通じ気候が不順で、 冬は雪が降り、 また年間を通じて雨が多い地域です。 楽しみと言えば野球と自然環境を利用した野山を駆け巡る事ぐらいの町です。 人口は約1万4千人。 主な産業は、 250年の伝統のある丹後ちりめん、 また機械金属産業、 農業等です。
しかし野球の歴史は古く、 昭和初頭より社会人、 青年団等が活発に大会を開いてきました。 少年野球大会も盛んで、 町内の小学生は夏休みを利用して大会が開催され、 私も子供の頃はよく出場しました。 峰山高校は私の出身校であり、 野球部は歴史が古く50年の伝統があります。 OBとして、 今年より阪神タイガースの監督に就任した野村克也氏を始め、 プロ野球界にも数名が入団しております。
こうした環境の中、 野球は丹後の人々にとって切り離すことのできないスポーツとして愛され続けてきました。 峰高野球部は野球の頂点であり、 野球少年の憧れでありました。 峰高は丹後の強豪として、 過去京都府大会において二度決勝戦まで登り詰めましたが、 市内チームに敗れ永年悔しい思いをしてきました。
昨年秋の府大会で初優勝し、 近畿大会ではベスト8に残り、 念願の甲子園の夢が間近となりました。 町は峰高の選抜出場の話題でもちきりとなり、 地場産業の不況で沈んでいた町の唯一の明るい話題となり、 町民の期待は日増しに強くなりました。
1月30日午後4時30分出場決定を受け、 町民の喜びは言葉では言い表せない程の盛り上がりを見せました。 町には花火が上がり、 町民は祝賀ムード一色となり、 また応援体制をどうするのか多くの問題を抱え、 盆と正月が一度にやって来た様でした。商店街はノボリ、 垂れ幕、 ビラ等あらゆる物が作られ 「がんばれ峰山高校」 一色となりました。
応援バス100台、 自家用車等で約8000人の応援体制が出来上がったのが大会3日前でありました。 応援バスは午前4時に出発し、 マスコミ各社も多数取材に来ており、 出発風景はテレビ等で見られたと思います。 私も応援バスの責任者として甲子園に行きました。 試合は御承知の通り強豪相手に惜敗はしましたが、 応援振りは、 最優秀応援団賞を受け、 丹後住民の喜びと共に誇りになったと思います。 峰高球児が野球を通して教えてくれた努力の必要性と根性は、 春の夢の様な大会となりました。
第23回京税協・支部連・大同チャリティーコンペ
4月12日、 瀬田ゴルフコース西コースにおいて、 「第23回京税協・支部連・大同チャリティーコンペ」 が開催された。 今回は過去最高の総勢135名を集め、 盛大な大会となった。 フェアウェイの状態が今一つとは言え、 前週までの寒さがうそのような陽気と穏やかな空の下、 好スコアが続出した。
以下、 各組の成績と出場者の弁。
感 想
宇治地区 田中 健三
3回目の優勝をして正直なところホッとしました。 と言うのも、 右京地区のI先生からゴルフ教えて下さいとメッセージがあり、 よせばいいのに (身の程知らず) その気になり、 平成9年の第20回の秋からご一緒させて頂くことになりました。 ところが、 その時の3位が最高で、 21回、 22回と散々な成績で終りました。 そのうちI先生は 「私が足をひっ張ってるのと違うかなあー」 と言いだしたけど、 私のお陰で彼女のドライバーとパターの感性が少し良くなったみたいだったので、 いやいや 「私の実力がないんや」 と言って近い将来絶対優勝するぞと心に誓い練習に励んできました。
特に今回は、 近税会の地区対抗競技の選考会の参考にするということを聞いていたので、 尚更燃えました。
また、 今回のアウトスタート組のメンバーを見ると、 過去のベスグロタイトルホルダーが (私を含め) ズラッといて、 正直、 今回は78を出さないとベスグロはとれないと考えていました。 予想どおりアウトのベスグロは79でした。 私は予定より6つ多く叩いてしまいました。 アウト・インの出だしロングホールをどちらも8叩きしてしまったからです。 ベスグロがとれなかったのはそれが原因です。 (結果論?) しかし両方ともハンデホールというラッキーに恵まれたのです。 その上、 林佳弘先生、 大同生命の福田部長という一寸ピリっとする良きパートナーに恵まれて久々に優勝することができました。
最後に、 当日早朝よりお手伝い頂いた京税協の役員、 職員の皆様、 また、 大同生命の方々にお手伝い頂き感謝致します。
今後も出場する限り常にベスグロ優勝を狙いつづけて行きます。
チャリティーコンペに参加して
右京地区 篠田 喜代子
ゴルフを始めて2年ほどになりますが、 いつもは身内ばかりの小さいコンペで気楽にプレーをしているのですが、 さすがにこんなに大きな大会になると緊張しました。
暑いぐらいの天気になり、 前半のショットの乱れも修正できて後半のドライバー、 アプローチ、 パターもまとまり自分なりに納得 (後半部分) できたと思っています。
ただひとつ文句をいうとすると、 フェアウェイの水捌けが悪くヌカルミが多くてザックリ、 ダフリ、 トップで困りました。 結果はBBをいただきラッキーでした。 最後に、 夫婦そろってBBにならずにヨカッタ、 ヨカッタ!?
川柳 右京地区 桜井 多計志 愚問には愚答が返る有事論 はにかんで受ける敬老乗車証 亡妻の星北斗の杓で掬わんか |
ふれあい美術館
孤高の画仙人小松均美術館
大原風景シリーズ、 最上川シリーズ、 富士山シリーズなどで独自の水彩画を築き、 美術界に新たな精気を吹きこんだ日本画家小松均が、 多くの作品を残して平成元年8月87才で没した。
平成2年11月、 大原の里の住居を改装して 「小松均美術館」 がオープンした。
小松均は山形県に生まれ、 若くして苦労しながら絵の道を志し、 25才の時大原の里の水の清さ風景の美しさに心打たれこの里に移り住み、 以後生涯この里で貧窮と闘いながら厳しい絵の修業一筋に過ごした。
絵に対する厳しい姿勢、 生き方から、 美術界から孤高の画仙人と呼ばれた。
美術館は昔ながらの大原の里にひっそりとしてあった。
展示は1〜4号館まであり1号館は、 彼が主に初期から60才頃まで制作した色彩画の代表作品である 「大原女少女」 の美しい色彩と少女の微笑が迎えてくれる。
2号館は、 彼の心を引きつけた大原の里が広い窓から眺められ、 その風景を画いた大作が中心に展示されている。
3、4号館は、 晩年力を注いだ水墨画、 特に一本の墨線に命を賭けた作品が展示されている。
幾度か情愛に破れ心深く哀しく幾度か世のそしりを受けて孤高に幾度か涙を流しためてことごとく人のゆるし心広く大きく自然に合掌して金剛の座につかんとす 吾が筆自然と共にあり岩かたければ吾が筆かたく心かたく目と手かたし流れよどめば吾もよどむ流れ輪をかければ吾も輪を描く流れ合唱すれば吾も合唱す 均 |
小松均美術館案内
〒601-1246 京都市左京区大原井出町369
TEL 075-744-2318
開館時間 午前10時〜午後5時
休 館 日 月曜日(祝日は開館)、年末年始
入 館 料 一般800円 大高生500円
小人300円
都会のオアシス北村美術館
河原町今出川下る一筋目を東に入った、 河原町の喧噪が嘘のような緑濃い閑静な街中に北村美術館はあります。 この美術館は隣接する 「四君子苑」 の主人であった故北村謹次郎氏が、 一代で蒐集された数々の茶道美術品を所蔵展示しています。
数寄者であった北村氏は、 生前、 自ら蒐集した絵画、 書蹟、 彫刻、 陶磁等、 重要文化財を含む美術品を公開し、 あわせて、 茶道文化の学問的な研究も行ってその発展に寄与することを目的として、 財団法人 「北村文華財団」 を設立され、 この財団により昭和52年に美術館が設置開館されました。
美術館は毎年、 春 (3月〜6月) と秋 (9月〜12月) テーマを決めて特別展を催しています。
訪れた5月の連休中は 「桃花笑むころ」 と題した特別展の最中で、 所蔵品の中から選んだ、 桃の節句を意識したお茶会でのお道具の取り合わせを展示してありました。
建物の外につけられた階段をのぼり、 正面玄関を入ると天井まで届く大きなガラス窓いっぱいに紅葉の新緑が目に飛び込んできます。 窓の外は美術館の2階に達するまでに成長した四君子苑玄関の植え込みの木々が枝を広げています。 このホールの緑の洪水で来館者が背負ってきた雑踏が洗い流され、 3階の静謐な展示室へと入っていけます。
展示は、 雛祭りの頃の茶会のしつらいとあって、 寄付は長沢芦雪筆墨彩の 「茗荷図」、 薄茶席は、 宗達下絵光悦書断簡 「山なしの花」 の掛け物で、 弥生早春を表しています。 書院の飾りは、 次郎左衛門作の立雛、 お香合は古染付 「桃」、 蓋置 「三ツ人形」、 茶杓 「飛 (ひ)な男」 と、 テーマに関連のあるお道具がならび、 また、 茶器の替 「南京赤絵四方鶴の丸文」、 茶碗替 「永楽保全作 日の出鶴文」 等、 鮮やかな色調の陶磁で、 これからくる春をワクワクして待ちながら祝う桃の節句の華やぎを演出しています。
この美術館は都会のオアシスのようです。 美術館の中に一歩足を踏み入れるとそこは全くの別世界。 日常をしばし忘れさせてくれます。 お茶に関心のない人も、 一度尋ねられたらいかがでしょうか。
北海道旅行 (利尻・礼文島方面) 平成11年9月11日(土)〜9月14日(火) 定員30名程度ぜひご参加下さい |
嵯峨の祭
嵯峨の祭は庶民の祈りと王朝の雅びの中にある。 庶民のそれは火への祈り、 王朝のそれは水への祈り。 庶民の祭、 王朝アンド庶民の祭そして王朝の祭それぞれ春の祭をご紹介します。
涅槃会とお松明
毎年3月15日、 清涼寺 (嵯峨釈迦堂) の境内に逆三角形の大きな松明が三基立つ。 この日清涼寺では、 午前10時から開廟法要が営まれ、11時頃から大松明の立柱式が行われる。 午後になると縁日の屋台がたちはじめ、 夜のとばりが降りる頃には、 お祭りムードが盛り上がり境内は立錐の余地もなく人波でうまる。 午後7時からの涅槃会の法要が終われば、 いよいよクライマックスの松明点火となる。
火が入ると勢いよく火焔がたち上がる。 嵯峨の人たちはこの火の立ち具合で、 早稲、 中て、 晩稲と今年の稲の豊作を占い、 作付けを決める。 また、 回廊に立てられる13本の高張りの灯の上下で、 米相場を占うという。
だが、 本来お松明は占いのためのものではなく、 涅槃会の神聖な行事の一つである。 涅槃会とは、 お釈迦様入滅の日の法要で普通は2月15日であるが、 ここでは1月遅れの3月である。 涅槃というと、 死ぬことのようにいわれるが、 本来の意味は、 煩悩の火を吹き消した平和境のことで松明の姿 (逆三角) は煩悩の造形だそうである。 三本立てるのは貪、 瞋、 痴の三毒を表す。 これらの毒を釈尊の智恵の灯明で焼き払うというのだ。
最後の確定申告書の提出を終えて、 丸太町通りを西端までいき、 学校の角を北へ曲がる。 突き当たりが釈迦堂だ。 今年は朝から雨だったが、 夕方にはすっかり晴れ、 きっと豊作であろう大きな火柱を見上げ、 夜店を冷やかし、 確申の疲れをいやした。
嵯峨祭
愛宕神社と野宮神社の祭。 歴史は古く室町時代頃まで遡る。 この祭は、 地方にみられる氏子の祭ではなく旧嵯峨御所大覚寺との関係が深く、 大覚寺を通じて皇室との縁も深い祭である。 昔は5月5日の節句に行われたが、 いつの頃からか5月第3日曜に神輿かざり、 翌第4日曜が神輿御巡行となった。
釈迦堂前に愛宕神社の御旅所があり、 主役の神輿二基の他に、 各町内の長柄や幡、 獅子などを保管している。 祭の列はまず、 御所 (大覚寺) へ上がり、 寝殿の前に祀られて門主、 寺僧の御祈願を受けるのが慣わしになっている。 行列には子供神輿や稚児行列も奉納され、 大覚寺から釈迦堂、 丸太町通りを練り歩く。
『山城四季物語』 (1674年刊) によると 「この祭は嵯峨上下の祭なり。 祭れる神、 愛宕山権現なり。 祭の神輿を嵯峨より野宮に振る。 ここにて神具をそなふ也」 とある。 古い歴史を持つ嵯峨祭も時代の流れとともに盛衰を繰り返し、 江戸時代後期に描かれた 『嵯峨祭行列絵巻』 なるものが、 現在、 アイルランドのチェスター・ビティ美術館で盛時を偲ばせているらしい。
さて、 祭といえばご馳走は鯖ずしと決められている。 塩鯖の大きいのを三枚に下ろし酢につける。 ご飯と併せ、 竹皮に包んだり、 型に填めて一晩押しておく。 これを親戚に配り、 お客にふるまい家族中で楽しむ。 祭のもう一つの主役である。
三船祭
嵯峨祭と同じ5月第3日曜日、 大堰川の嵐山一体にきれいな船を浮かべて、 芸能の神様、 車折神社の三船祭が行われる。 御座船に供奉する船は、 龍頭・鷁首・詩歌・俳諧・謡曲・献茶献花・糸竹・小唄・琴など、 たくさんの芸能船が従う。 車折神社を出た神幸列は渡月橋をわたり、 中之島から御座船に移り、 管弦楽・迦陵頻・胡蝶の舞・扇流しなどが行われる。 898年、 宇多天皇が始められた御船遊びが起こりの神事である。 三船というのは白河天皇の頃の漢詩・和歌・奉楽の三隻船の故事によると伝えられる。
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