バックナンバー 平成14年11月25日 第99号bR

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京の文学散歩  −梶井基次郎 『檸檬』− 下京支所 北尾 剛久
  

誰もが青春時代に一度は感じ、
   しかし、 言葉では表現できなかった世界− 
   そんな梶井文学の世界に皆様をご案内しましょう。

 小説 『檸檬』 の舞台となったのは、 大正期の京都の街。当時梶井基次郎は京都三高の学生だった。

現在、 小説の舞台となった丸善京都店は、 場所も移転し外観も全く変わってしまった。

しかし、 八百卯果物店は今も相変わらず、 妙に暗い雰囲気の中で明るい光に照らし出されている。

京都寺町二条角である。


 あのとき、 梶井基次郎がその2階の茶寮の硝子窓をすかして果物店を眺めていた 「かぎ屋」 は戦後に姿を消した。

現在はコンビニエンスストアーになっている。 そこに立ち八百卯を眺めてみた。

1階は果物店で硝子張りになっており、 ショーウインドーには多くのレモンに混じって 「梶井基次郎 『檸檬』 の店」 の文字。

梶井基次郎に関する新聞の切り抜きも多数陳列されていた。

2階はフルーツパーラーになっており早速店に入ってみた。


 レモンスカッシュを注文し、 待っていると、 「京都の方ですか」 と気さくに声を掛けてこられたのは店主の村井義弘さん。

当時の店主のお孫さんにあたるらしい。 現在の建物は昭和51年3月末に完成したそうで、 「休みになると若い方がよく来られます。

『国語の授業で習ったから』 と言って修学旅行生もよく訪ねてこられます」 とか 「レモンはカリフォルニア産のサンキストと国内産は半々ぐらいです」 といった話をされていた。

ふと目をやると小説 『檸檬』 の一説が飾られていた。


 二条寺町は、 繁華街の中心部四条河原町からさほどない距離にありながら、 今も閑静なたたずまいを残している。

当時寺町通は三高生たちの散歩のコースにあたった。

三々五々下駄の音を響かせ、 黒いマントをひるがえし、 紅萌ゆると逍遥を高唱しながら、 新京極さして下がって行った。

今は京見物の若者達が店々のウインドーをのぞきながら歩いている。

古ぼけたままの道具屋、 骨董屋が並ぶ。 それでいてモダンな店がふと混じる。

通りはくすんではいない。 騒々しくもない。 澄んでいる、 あのころのように。


 梶井基次郎の文学的出発が、 第三高等学校の仲間たちと出した 「青空」 であったことはよく知られている。

彼が三高に入学したのが大正8年9月、 そして卒業したのが大正13年3月である。

数え19歳から24歳までの4年7ケ月間、 京都での学生生活を過ごしたことになる。

梶井基次郎は1901年 (明治34年)2月、 大阪市に生まれ1932年 (昭和7年) 3月大阪市で死んだ。

わずかに31歳であった。 初期習作を一応除外すれば、 処女作というべき 『檸檬』 を同人雑誌 「青空」 の創刊号に発表し、 絶筆となった 『のんきな患者』 を1932年1月 「中央公論」 に発表するまでの7年間が、 彼の創作期間であった。

そうしてその7年の間、 彼は絶えず胸の病のために苦しんでいた。

彼の作品のほとんど全てはその闘病生活の中から生まれたものである。

そして彼は21歳の時友人にあてて、 「人間が登りうるまでの精神的な高嶺に達しえられない最も悲劇的なものは短命だと思う」 と書いたが、 その嘆きにも拘わらず、 彼の病気は彼に天寿を全うさせなかった。


 しかし、 梶井基次郎は病に苦しみつつ、 31歳の若さで死んだけれども、 その短い生涯の間に、 いかにも彼にふさわしい作品を残すことができた。

今日私たちの見ることのできる作品以外に、 どのような梶井基次郎の作品も想像することができないほど、 それらは揺るぎない風格を示している。

完璧な造型性を得てぴたりと鎖された世界−それが梶井基次郎の作品世界に他ならない。

恐らく処女作に、 『檸檬』 のような完成した作品を書いてしまった作者にとっては、 夭折ということはもはや避けることのできぬ宿命であったのかも知れない。

そんな気がする。 彼は20編ばかりの作品のためにその生涯を費やした。

しかも完成した作品が規模雄大な長編ではなくたかが数ページの小品にすぎなかった点に、 彼の長所も短所もすべて現れているといえる。

このような作家は他にちょっとその例を見ない。 凝縮され、 煮詰められ、 殆どエッセンスそのものとなった主題、 そしてそれを適切に表現した文章。

そこに梶井の持つ独特のスタイルがある。 しかしまたそこに、 かれの文学の限界があることも認めなければならない。


 大正13年の秋、 梶井は京都時代の自分の内面の総決算をなす作品にとりかかる。

奔放な語り口、 ダイナミックな展開、 内面と外面の対比を用いて、 「瀬山」 と名付けた主人公の落ち込んだ精神状態を書いていく。


 が、 梶井はこれを完成出来なかった。 結末がうまくつけられなかった。 やむをえず、 その中の一場面を独立した作品に仕立て直した。


 欝屈した心の状態を背景におき、 そこへ1個のレモンと出会った時の感覚の喜びを再現した。

そこに、 たかが1個のレモンを、 この世の全ての 「善いもの」 「美しいもの」 に匹敵すると感じる倒錯した心理が浮き彫りになる。

そして梶井は、 レモンを爆弾に見立てることに、 自分を圧迫する現実を破壊してしまいたいという夢を刻みつけた。


 その舞台となった丸善京都店は三条麸屋町西入ルにあった。

現在は、 マンションに様変わりしている。


 作品 『檸檬』 は、 主人公の置かれた境遇や性格の描写など、 普通の小説に不可欠と考えられている条件を捨て、 ひたすら、 自分を圧迫し追い立てる日常から脱した感覚の喜びの世界を描き出している。


 さて、 梶井文学の世界にふれるべく店を出る時同じようにレモンを1つ買ってみた。

何気なく握ってみるとやはり冷たかった。 わかったと思う、 彼の言う 「えたいの知れない不吉な魂」 とは何なのかが。


 その檸檬の冷たさは、 たとえようもなくよかった。 そのころ肺を悪くしていていつも身体に熱が出た。

掌は誰のよりも熱かった。 その熱い故だったのだろう、 握っている掌から身体に浸み透っていくようなその冷たさは快いものだったという一文を読んだ時、 梶井文学の世界を垣間見たような気がした。

12〜13頁

歴史に「たら・れば」は
   つきものだけれど   二 宮 忠 八 (1866〜1936)
     中京支所 中村 裕人

 高度3万2千フィート、 JAL574便は順調に飛行を続けている。 眠気を覚えている頭にはP&W PW4098ターボファンエンジンの微かな響きが聴こえている。


 21世紀に誕生した唯一の、 また、 現在最も安全な乗り物の一つである飛行機は、 1903年にライト兄弟が世界で初めて動力飛行に成功したのだが、 この世界で初めての快挙はもしかしたら日本人の手によって実現していたかもしれなかった。


 京阪電鉄八幡市駅のターミナルを東に200メートル、 橋を渡り最初の交差点を右折するとすぐ右側に神社がある。

ただ、 普通の神社と異なるのは入口すぐ左側に、 全長約5メートルはあろうかというジェットエンジンがガラスのケースに入れて飾ってある。

札所には 「航空安全災難除け」 の御札やお守りが目につく。


 この神社は 「飛行神社」 と言い、 神社を大正4年にこの地に創建したのが二宮忠八である。


 忠八は慶応2年、 愛媛県八幡浜に海産物問屋を営む二宮幸蔵の4男として生まれた。

しかし、 父は忠八が12才のとき他界したため様々な仕事をして生活の糧を得ていた。

その中に伯父の二宮佐七の薬種商の手伝いもあり、 そこで物理や化学に深い興味をもつようになった。

また、 萩原惣五郎という測量士のもとで製図法も体得した。


 忠八は少年の頃から凧に興味をもち、 彼独特の考案になる様々な凧は 「忠八凧」 と呼ばれ実用品として多く売れたが、 彼の研究心はもっと高度なものに向けられていった。


 明治20年、 丸亀の歩兵第12連隊付の看護卒として入営、 22年には看護手と呼ばれるようになった。

その年の10月、 讃岐、 松山の両連隊の秋季機動演習の折、 忠八はある光景に目を奪われた。

その先には翼を広げて固定翼のようにして滑空しているカラスの姿があった。

カラスは広げた翼に揚力を生じ、 谷間から吹き上げる上昇気流などの複雑な力をうまく利用して滑空していたのである。

忠八の頭には 「1つの物体に2つ以上の方向と速度のちがう力が同時に働く時は、 その力の平行四辺形の対角線の方向に進む」 という法則が浮かんだ。

また、 八幡浜で水面に平たい石を投げて水きりをしたことを思い出した。

石は沈まないで水面をはじきながら滑っていく。 ある角度で水に抵抗していくからだ。

このカラスと石を結び付けることによって彼は飛行機発明の大きなヒントを得た。

「凧に今見たカラスの翼の原理を加えて工夫したら、 人工の翼で空を飛ぶことができるに違いない。 空を飛ぶ機械を作って見よう」。


 飛行機の原理は機体の重量に等しい揚力を翼で発生させ、 重力と上下方向の力のバランスを保つことによって、 空中を飛行できるわけで、 それを継続するためには抗力に打ち勝つ推進力が必要となる。


 このようなことを忠八はタマムシやトビウオ、 トンボを材料にして研究を重ねた。


 タマムシは硬翼 (前羽) を張って空気に抵抗し、 軟翼 (後羽) は下から硬翼を押し上げるようにして運動し推進力を得ている。

その当時の飛行研究家は鳥の羽ばたきに飛行の原理を見つけようとしていたが、 忠八は固定翼の考え方を発見したと言える。

トビウオからは滑空の条件等のヒントを得ることができた。

飛行中のトンボは腹部を下げて、 ある角度を維持している。

これは飛行中の安定と関係があるようである。


 忠八は助手の細川喜与平に手伝わせてトンビ凧の型を原型とする第1号の 「カラス型模型飛行機」 の製作に取りかかった。

ここで彼は大きな発明をしている。 ライトフライヤーでさえ装備してなかった車輪をすでに模型飛行機に取り入れ、 離着陸に対応させていたのだ。

推進器は竹トンボを横にして使うことを考えたが、 問題は動力で、 当初考えたゴム管では強すぎて使えない、 そこで細川助手の助けをかりて、 もらって来た古い自転車のチューブを細く切ることで対応した。

機体は黒く塗り目玉を付けカラスのように仕上げた。


 明治24年4月29日の夜、 ただ1人丸亀練兵場の広場で初飛行をすることになった。

夜に決行するには訳があった。 もしも成功しなかったら、 それまで狂人扱いしていた人達からどんなにあざけられるか分からなかったからである。

ゴムを一杯に巻いてそっと手を放した瞬間、 地上を滑った機体は見事に浮き上がり30メートル先の草むらに落ちた。

飛行神社では毎年この日を記念して例祭を行い、 模型飛行機大会を催して忠八の偉業を偲んでいる。


 忠八は第2号機として、 玉虫型を考案した。 前述のタマムシの飛行に範を得て上部に主翼を配置し浮力を発生させ、 その下にタマムシの後羽にあたる小翼を取り付け、 方向と安定を保つ構造を採用した。

動力は時計のゼンマイを使用し、 汽船からヒントを得て後方にプロペラをつけた。


 明治26年10月1日、 約2メートルの2号機 「玉虫型」 の模型が完成した。


 明治27年8月1日、 日清戦争が布告され、 忠八は大島混成旅団第1野戦病院付1等調剤手として、 京城郊外孔徳里に野営を続けていた。

ある日上官に偵察等の利点を含めて飛行機の考え方を打ち明け、 軍医を通じて当地に滞在中の参謀長、 長岡外史大佐に玉虫型飛行機の設計図に上申書をそえて提出した。

しかし、 彼には先見の明がなかったのか 「そんな夢見たいな、 軽業のような機械は信用できない」 と却下された。

もしも、 この上申書が受理され、 軍により研究が進められていたら歴史は別の姿を現していただろう。


 翌28年、 日本は戦勝し、 大島旅団長も広島に凱旋した。 そこで再び軍医部長を通じて大島閣下に面会し、 上申書を提出したが、 閣下は 「空を飛ぶ事ばかり考えて足元を見なければ成功しない。 もっと研究してくるのだな」 とこれを取り上げることはなかった。


 翌年軍隊生活にピリオドをうち郷里に帰る途中、 讃岐の金刀比羅宮に参拝して次の願をかけた。


1、 飛行機の独力準備金として1万円の資金を作らせてください。

2、 大臣や大将と自由に面談のできる身分を与えてください。


3、 研究を完成させるための発動機の製造工場と試乗場所を与えてください。


4、 試乗中、 万一不幸を招くことがあっても後願のうれいのない事業をさせてください。


 このような志を持って忠八は大日本製薬株式会社に入社、 会社の発展に尽力した。

彼が作り出したり改良した薬品は100数10種におよび、 中でも二宮舎利塩は最上の優秀品として金賞を受賞した。

その後、 大阪薬品試験所と合併し、 新会社の取締役に推薦され、 実業界の第1人者となり、 1万円の貯金もできた忠八は、 ある時石清水八幡宮に参拝した。

同社は綴喜郡八幡町にあり、 故郷の八幡浜と同じ八幡の名に限りない懐かしさを覚えた。


 付近は川幅が広く一面の砂原であった。 彼は飛行機の完成時ここで試験をしようと心に決めた。

また、 付近にあった精米所の石油発動機に着目、 これを飛行機の動力にしようと買取り、 急遽橋本 (現在の八幡市橋本) に引っ越した。


 忠八はここから大阪の会社に出勤し、 会社から家に戻ると設計に取り組んだ。


 軍に対する再三の上申が却下され、 それに失望して軍を去り実業界に入った。

業務に励んだ結果ようやく経済的な余裕もでき、 整った条件の下、 忠八の頭の中には轟音をあげて木津川の試験場に浮かび上がる飛行機が具体的な姿となって現れてきた。


 明治36年12月18日の朝、 忠八の元に驚くべきニュースが飛び込んできた。

前日、 アメリカのライト兄弟が動力による人類最初の飛行に成功したのである。

「ライト兄弟の飛行機も原理的に変わりがなく、 軍で試作してくれていたら先鞭がつけられたのに」 忠八の目に涙があふれた。


 このとき、 材料を買う金が足りなくて困っているときには持参した衣類や髪飾りを金に替えて差し出し、 設計図に筆を動かす忠八の机にだまって茶菓を運んで彼を陰で支えて来た妻、 寿世の目にも光るものがあった。


 翌日忠八は旧精米所に行き、 枠組みが出来上がり後は動力としてオートバイ用のエンジンを取り寄せるだけとなっていた飛行機に、 ハンマーを振り下ろしていた。


 その後飛行機は急速な進歩を遂げ忠八は航空業界を見守りながらも飛行機に関する興味を失うことはなかった。


 しかし、 各地で次々に発生する航空機事故に耐え難い苦痛を覚えた忠八は何とか慰霊を慰める方法がないかと思いを巡らせた結果、 大正4年3月10日、 八幡の邸内に祠を建て殉難者を祭神とした飛行神社を祭始した。


 後年 「帝国飛行」 という機関紙の記者が忠八の玉虫型飛行機の設計図を偶然見つけ、 驚くとともに貴重な資料として帝国飛行に発表した。

それが忠八の上申を却下した長岡中将の目に入った。 中将は素直に非を認め長文の詫び状を忠八に送るとともに、 帝国飛行紙上にも同文をのせて忠八の偉業をたたえ、 自らの不明を天下に公表して謝したのであった。


 大正10年5月、 忠八の世界的な飛行機の発明にたいして、 航空本部長より感謝状が授与された。

忠八が飛行機を考案してから30年、 やっと彼の飛行機の真価が認められたのである。

大正15年帝国飛行協会総裁久邇宮殿下から賞状と有功金杯を受領し、 昭和2年には勲6等に叙せられ瑞宝賞を送られた。

また、 国定教科書にも載せられて忠八の名は日本全国に広まるのみならず、 航空医学で有名な寺師義信博士により 「欧米列強に先んじた日本飛行機発明史」 という論文により各国に紹介され世界に知れ渡ることとなった。


 故郷の八幡浜と、 第1回の上申書を提出した京城の竜山孔徳里には 「合理飛行機発祥之地」 の記念碑が建てられた。


 忠八はその後神職の試験にも合格し晴れて本物の神官となった。

神社では航空事故のほか、 物故した航空先覚者の霊も合祀されて、 その霊位は15万柱を数える。


 晩年の忠八は神社に仕え、 幡山と号し、 飛行千歌を詠み、 幡詞を作り、 幡画を書くのが日課であった。


 忠八は1度だけ八日市の陸軍飛行場で空を飛んだことがある。

「若いころ毎晩飛行機に乗った夢を見、 このごろでも時々見るが、 今初めて空を飛んだ気持ちは、 夢で見たのと少しもちがわなかった」 とその感想を家人にもらしたという。


 気が付くと機は伊丹に向けて最終アプローチに入ったようだ。

高度が下がり右窓のはるか彼方に奈良から京都に至る盆地が広がっている。

このどこかに木津川があるはずだ。 一瞬遠くの空に玉虫型飛行機が見えたような気がした。

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第30回
VIP君・ランちゃん ゴルフコンペ開催

 10月24日、 瀬田ゴルフコースにおいて、 「第30回VIP君ランちゃんチャリティーゴルフコンペ」 が開催された。
 今回も北と東にわかれてのコンペとなったが、 当日は秋晴れの穏やかな日和りとなり、 成績表にある様に好スコアの出た大会となった。


 各組の入賞者 (敬称略)  
北コース  東コース
優勝 林 正 87 山本矩彦93
2位 岩ア正典92 松村一郎97
廣瀬嘉夫95 清水郁雄81
秋山 達87  吉田和正81
村尾嘉夫96  中川 勉97
BG 村中平治84 ※牧野誠二79
BB 谷林忠男129 林 繁一133
※は生保を表す


団体の部  
優勝 上京支所
準優勝 中京支所
3位 右京支所
 

腰痛を乗り越えて悲願達成!   中京支所 林   正

 何回参加してもいつも蚊帳の外、 飛賞に当たるのが精一杯だったこの大会にまさか優勝の栄誉を授かるとは夢にも思いませんでした。


 京都府下のゴルフ自慢が一同に会してのチャリティーゴルフ大会に勝利出来たこと、 これ即ち私自身へのチャリティーだったのかと感謝の気持ちでいっぱいです。

何度も腰痛で挫折を味わいながら、 ただゴルフだけは終生やり続けたいという気持ちが通じたのか、 最近再びゴルフが続けられていることにとても充実感を感じていたところです。


 冒頭村山支部連会長がダブルペリアは当てもんのようなものと言う話に、 私自身納得しながら聞いていたのですが、 いざ優勝の2文字が自分の手中に収まると、 「会長!それは違います、 本人は家族と仕事を犠牲にし、 血の滲むような努力をしてるんですよ」 と言いたい気持ちです (ちょっと、 いや大分オーバーかな?)


 当日参加した仲間に言われました 「北コースは年寄組、 東コースの若手組に比べるとレベルが低いし、 コースも簡単だから入賞し易いよ」 と心温まる?お言葉を受けての北コースの優勝に、 とりあえず感謝、 感謝。


 表彰式では緊張の余りカップを落とすハプニング、 席上上田理事長よりP町のお姐さんに報告せよとのご命令があり、 理事長の真意が理解出来ないまま、 ご命令だけは実行しておきました。


 同組でプレーをして頂いた物静かでマイペースプレイの今西先生 (右京支部) 実力の半分も発揮出来なかったにもかかわらず陽気に振る舞う平澤先生 (右京支部) 周囲への気配りに翻弄され、 私にまでチャリティーをして頂いた村山先生 (中京支部) 皆様の心の大きさと豊かさを痛感致しました。

ありがとうございました。


 最後にチャリティーゴルフにご協賛、 ご協力頂いた関係者の方々に心よりお礼申し上げます。

盆と正月がいっしょに来た!!   上京支所 山本 矩彦

 前日の寒さが残り少し肌寒い感じでインスタート。 「ボギー」 「パー」 「ボギー」 「パー」 と中々好調。

ところが14番で 「10」 何時もならここで崩れるところ。 我慢々々の 「48」 昼から絶好のゴルフ日和りとなり気持ち良くアウトスタート。

9ホールを 「45」 トータル 「93」 でプレー終了。


 表彰式では、 何時もの 「たら、 れば」 談議をしながら飛び賞を楽しみにしていたところ、 思いがけなくも優勝ではないか、 ラッキー。

何んと 「14」 番での 「10」 「トリプルボギー」 2つ。

「ダブルボギー」 1つが、 悉く隠しホールに恵まれハンディ24、 ネット 「69」 その上、 上京支部の団体優勝とまさしく小生にとっては盆と正月が一緒に来たような気分でありました。

本当にありがとうございました。


 最後になりましたが、 当日ご一緒させて頂きました伏見支部の中田均、 倉本喜代春両先生、 上京支部の堀田芳孝先生、 楽しくプレーさせて頂き本当にありがとうございました。

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=ソフトボール大会= 悲 願 達 成 ! 右京支所 大橋 康人

 9月21日 (土) 恒例の支部対抗ソフトボール大会が開催されました。

今年は横大路グランドで天気も野球日和で申し分なし。

そんな中、 我が右京支部は念願というか悲願のというか優勝に輝きました。


 ここ何年か優勝候補の一角に上げられていた右京支部、 野球経験者が何人もいるのに何故か勝てない右京支部、 打ち上げの宴会では威勢のいい右京支部、 プロ野球の某ダメトラチームのような右京支部、 しかし今年は違いましたね。 優勝は十数年ぶりらしいですが本当にうれしいひと時でした。


 1回戦は昨年同様左京支部です。 昨年は大差でけちょんけちょんに負かした相手、 ちょっとなめてかかったのか後半追い上げられましたが、 何とか初戦突破しました。

2回戦は中京支部との対戦です。 中京支部は昨年の優勝チーム下京支部を負かしての1回戦突破ですので、 手強いかと思いきやなかなか圧巻の試合でした。

我がチームのエース、 ○○歳の片山孟先生の変則投法と小柄ながら要所を締める俣野健司先生の2枚看板でなんと完封勝利、 ソフトボールで完封試合なんてあまりない光景と思います。

打撃のほうも1回戦同様2桁得点で決勝戦に駒を進めることができました。

決勝戦の相手はさすが決勝戦の常連伏見支部、 心配なのは体力のないわが支部、 体力のなさでずるずる後退していくのですが、 今年は打線も好調で守備も抜群に光ってました。

攻守ががっちりとかみ合って、 勝ち上がってきた勢いそのまま快勝で優勝させていただきました。

試合後の宴会も反省会ではなく、 やっと祝勝会ができ、 美酒に酔わせていただき夜遅くまで飲み歩いてしまいました。


 来年も連覇目指して美味しいお酒が飲めるように団結してがんばろうと思っています。

最後になりましたが、 各支部の選手、 応援団の先生方、 お疲れ様でした。

また、 大会関係者の皆様方には本当にお世話になりました。 ありがとうございました。

ソフトボール応援記 右京支所 篠田喜代子


 やりました!ついに優勝してしまいました。 今年の右京は、 強かったぁー。 ホンマに。

向かうところ敵知らずの右京軍団の時代が到来しました。


 昨年は、 優勝戦にあと一歩の第2戦をジャンケンで負けてしまい悔し涙を呑みましたが、 今年は、 きっちり実力で勝ち取りました。


 聞くところによると、 試合に備えて、 事前練習を行ない、 または、 個人的に走り込みやピッチング或いは、 バッティング或いはドライバー?の練習に余念がなかった一年であったとかなかったとか?……


 ということで、 その後の祝杯のビールのおいしかったこと、 おいしかったこと!

皆でおおいに盛り上がり、 来年の優勝も右京で決まりということになりました。


 なお、 これは、 余談ですが、 私、 今回初めてソフトボールの応援に参加させていただきました。

それも夫婦揃って!そこで、 考えてみますと、 私等夫婦が応援に行った↓優勝。

応援に行かなかった↓否優勝。 という結論が導きだされました。

ということは、 要するに、 私等夫婦の応援のお陰で優勝できたということです。ハイ。

川   柳
             右京支所 櫻 井   武

  安保理に戦イクサの好きな國二つ
  「住基コード」 しっかり抱いた不発弾
  簡単な円周率が生む余ユト裕リ
  一歩前進 胸のバッチは何時解ける
  沙羅双樹 世俗の義理に散り急ぐ
  変化球投げる男にある打算

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 彫刻家、 荻原碌山 (守衛) は、 北アルプスの麓に南北に広がる安曇野のほぼ中央、 南安曇郡東穂高町で、 明治12年12月1日に生まれ、 明治43年4月22日永眠しました。

30才5ケ月の若さでした。 碌山美術館は、 彼の生誕地である穂高町に昭和33年4月22日 (碌山忌) に開館されました。

建物は素朴な煉瓦づくりで、 厳しい風土に耐えるがっしりした教会風の建物です。

訪れたのは8月の盆休みでしたが、 蔦で覆われた建物の中は涼しく、 碌山の作品たちがやさしく出迎えてくれました。


 碌山は、 明治37年、 25才の時、 ロダンの 「考える人」 を見て強い衝撃を受け、 彫刻家になろうと決心しました。

パリで彫刻を学ぶためにニューヨークで働き、 お金を蓄えます。

ニューヨークでは働くだけでなく美術学校へも通い、 明治39年、 彫刻家への夢を胸に秘めパリへ。

そこで粘土をこねる事から始めるのです。

その後ロンドンでロダンに会い、 その会話の中で 「静止しているポーズのうちにも動きがなければならない」 と悟るのです。

「女」 の像は彫刻家として碌山の最後の作品となったものです。

両手を後ろで組んでひざまずき、 顔は上に向けられ目を閉じ、 唇はゆるく開かれています。

自然な姿であるとはいえ、 苦しいポーズです。 苦しいけれど、 安定しすっきりしています。

そして、 人体の持つふくらみとすぼまり、 光と影が作品にリズムを与えています。

けなげで美しい姿に希望と喜びを感じます。 「女」 には碌山の命が宿り、 愛が結晶しています。

碌山は我が身を忘れ、 命を削ってこの作品を製作する事により、 自分の人生を完成させたのでしょうか。


 碌山は30才で、 東京新宿中村屋で吐血し、 永眠します。

なぜ、 若くして死んでしまったのか、 実際のところは解りません。

碌山の周りの人々は碌山を失い、 改めてその愛の深さを知り、 嘆き悲しみますが、 同時にその愛によって生きる勇気を与えられました。

碌山と共にロダン紹介につとめた高村光太郎も碌山が忘れられず、「荻原守衛」という詩を作りました。

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあった
坑夫、 文覚、 トルソ、 胸像
人なつこい子供荻原守衛の 「かあさん」 がそこに居た
新宿中村屋の店の奥に
四月の夜ふけに肺がやぶけた
新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして
荻野守衛は血の魂を一升はいた
彫刻家はさうして死んだ−日本の底で

 
 
 
 
 
 

財団法人 碌山美術館
〒399-8303 長野県南安曇郡穂高町大字穂高5095-1
      T E L (0263) 82-2094
      FAX (0263) 82-9070
 http://shinshu.online.co.jp/museum/rokuzan/
開館時間/3月〜10月 → AM 9:00〜PM 5:10
     11月〜2月 → AM 9:00〜PM 4:10
休館日/月曜日と祝祭日の翌日
    12月21日〜1月4日
    但し5月〜10月無休

 北区上賀茂の閑静な住宅街の一角に、 日本で唯一の朝鮮美術を専門にした美術館があります。

朝鮮半島史上の統一国家 「高麗」 の名を持つその美術館は、 昭和63年10月に在日朝鮮人一世である故鄭詔文チョンジョムン氏の自宅を改造して開館されました。


 6才の頃日本に渡ってこられた鄭氏は、 ある日 「李朝白磁」 と出会い祖国の素晴らしい文化と、 その文化を生んだ朝鮮民族の歴史に心ひかれます。

それから40年の歳月をかけ統一新羅時代から朝鮮の李王朝末期までの美術品・民俗資料約1700点を蒐集されますが、 その蒐集は日本国内でのみおこなわれました。

蒐集品はすべて朝鮮半島から日本に渡ってきていたものばかりなのだそうです。


 美術館の入口で大きな石像に迎えられ館内へ。


 1階は主に陶磁器や屏風などの美術工芸品が展示されていますが、 やさしい丸みをおびた壷やどこかユーモラスな図柄に心がなごみます。

朝鮮では屏風に描かれている蝶や鳥は必ず一対になっているのだそうです。


 展示品のなかでも特に目をひく 「華角貼三層箪笥」 は、 保有が公表されているものとしては日本で唯一のものであり、 保存が難しいことなどから韓国にもほとんど残っていないという貴重なものです。

「華角貼」 とは朝鮮時代後期から末期にかけて流行した装飾技法で、 まず牛の角を煮て中をくりぬき、 それを開いて薄く板状に削ったものに花や童子などの美しい絵付けを施してから箪笥や木箱に貼り付けるという大変手の込んだ方法です。

その板状の角の厚さはわずか0.3ミリ程度だとか…。

この箪笥は花嫁道具だったそうですが、 その華麗さに圧倒されます。


 2階は素朴な感じの家具や木工品が当時を再現した形で展示され、 仏像には花や水が供えられていて、 その落ち着いた雰囲気の中では時を忘れてしまいそうです。


 お庭には鄭氏が苦労して手に入れられたという石塔がありますので、 こちらもお見逃しなく。


 残念なことに鄭氏は開館後間もなく亡くなりました。

けれど、 その素晴らしい蒐集品の数々は今も暖かく私達を迎えてくれます。


 12月23日まで秋季企画展として 「朝鮮の仏さま」 を開催中。

未だ不明な点が多いとされる朝鮮時代の仏教芸術に焦点を当て、 これまで未公開だった館蔵資料なども展示されているとのことです。


 この機会にぜひ、 朝鮮の愛らしい仏さまに会いにお出かけ下さい。

財団法人 高麗美術館
〒603-8108 京都市北区紫竹上岸町15番地
      TEL.075-491-1192
      FAX.075-495-3718
   URL:http://www.koryomuseum.or.jp/
   E-mail:home@koryomuseum.or.jp
開 館/午前10時〜午後5時
     (入館は午後4時30分まで)
休 館/月曜日 (祝日と重なる場合は翌日休館)
    年末年始、 展示替期間
入館料/一般500円、 大高生400円、 小中生300円


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